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品川神社
しながわじんじゃ
東京都品川区北品川3−7−15
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東京都品川区にある。
京浜急行の新馬場(しんばんば)駅の北西100mほどの北品川に鎮座。
駅を出て、第一京浜を渡ると、境内入口の鳥居が建っている。
当社の鳥居には左右の柱に双龍の彫刻が施された珍しい形式。
左の柱に昇龍、右の柱に降龍が参拝客を迎えてくれる。
鳥居の右手には「元准勅祭品川神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐり、参道の階段を上ると境内だが、
参拝当日には、階段から境内の右手で、樹木の枝葉を落とす作業をしており
階段の中央に赤いコーンが並んでいた。
階段の中ほどから、左手にゴツゴツした富士塚がある。
明治二年、北品川宿の丸嘉講講中三百人によって造られたもので
神仏分離で破壊されたが、明治五年に再築され、
大正十一年、第一京浜国道建設にともなって移築されたもの。
階段を上ると富士塚の脇に境内社の浅間神社が祀られている。
参道を進むと幾つかの鳥居があり、正面に入母屋造の拝殿。
屋根は青い銅葺きで、柱は朱。壁は白くて堂々とした構え。
拝殿の後方には流造の本殿がある。
本殿の裏手から南側に、板垣退助の墓所がある。
「吾死スルトモ自由ハ死セン」という言葉で有名な明治の政治家。
板垣退助の他にも幾つかの墓が並んでいるが、板垣家縁の墓だと思う。
その場所は、元は東海寺塔頭高源院の敷地だったが
関東大震災後に高源院は移動され、この墓所だけが残されたらしい。
文治三年(1187)、後鳥羽天皇の御代
源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、
安房国の洲崎明神を勧請して、品川大明神と称したのが当社の起源。
元応元年(1319)、後醍醐天皇の御代、
当国守護職の二階堂出羽入道道蘊が、宇賀之売命を勧請し
社殿等を再建して、社地を吉端岡と名付けた。
文明十年(1478)六月、太田道灌が
素盞鳴尊を勧請し、現在の祭神となった。
慶長五年(1600)徳川家康が関ヶ原の戦いに出陣の折
当社神前にて戦勝を祈願し太太神楽を奏し、後に神輿、面等奉納。
寛永十四年(1637)将軍徳川家光の命により東海寺鎮守と定められ、
建物の修復がすべて幕府によって賄われる幕府の御修復所となった。
同じく北品川鎮座の荏原神社が南の天王社と呼ばれ
当社の通称は北の天王社。
明治になって、天皇の勅使によって祭祀・奉幣が行われる准勅祭社に定められた。
なお、准勅祭社の中の品川神社は当社のことではなく、
荏原神社であるとする説もあるらしい。
『東京都神社史料第五輯』には、
明治期の「御新政後記録」や「神祇官判事上申書」などが登載されている。
「御新政後記録」とは、品川神社第十三代神主小泉勝麿(小泉帯刀明治三年没)が
明治元年より三年(准勅祭社制定年)までの諸通達・取調書・意見具申書を記録したもの。
そこには、明治元年に東京の十社神主が招集され
植松少将より准勅祭社を仰せつかった事や、その時の席次など、
詳細に記述されている。
面白いので、席次だけ転記しておく。
第一、芝神明神主 小泉大内蔵(港区芝大門)
第二、日枝神社神主 樹下内膳(千代田区永田町)
第三、根津神社神主 伊吹左京(文京区根津)
第四、神田神社神主 芝崎美作守(千代田区外神田)
第五、亀戸天神社神主 大鳥居信敬(江東区亀戸)
第六、駒込白山神社神主 中井伊織(文京区白山)
第七、品川神社神主 小泉帯刀(品川区北品川)
第八、冨岡八幡神主 冨岡栄(江東区富岡)
第九、赤坂氷川神社神主 斉藤織部(港区赤坂)
第十、王子神社神主 大岡兵庫(北区王子本町)
なお、当時招集され、准勅祭社に指定された十社は、
現在、東京十社と称されている。
参道階段脇、左手に浅間神社が祀られ、
境内右手に御嶽神社と祖霊社。
拝殿の右手には、阿那稲荷神社が祀られている。
阿那稲荷社は、上社と下社に分かれており、
下社の社殿内に、八百萬神社・大國主恵比須神社・天王白龍辨財天社の
三つの祠と、一粒萬倍の泉がある。
上社は天の恵み、下社は地の恵みと霊泉で、天・地・水の恵みを祀ったものらしい。
一粒萬倍にはザルが置かれていて銭を洗うと、
文字通り「萬倍」になるらしいので、持っていた小銭を洗ったが
紙幣を洗えば良かったかもしれない。
参拝を終え、参道階段を戻ると、第一京浜の向こうに京浜急行が走っていた。
第一京浜に面した境内入口 |
昇龍 | 降龍 |
境内鳥居 | 境内 |
境内は東向き |
拝殿 | 本殿 |
本殿裏側(南側)に板垣退助の墓 |
拝殿 | 神楽殿 |
阿那稲荷上社 | 阿那稲荷下社 |
下社内に一粒萬倍の泉 | 下社内の三祠 |
富士塚と浅間神社 |
御嶽神社 | 祖霊社 |
境内から鳥居、第一京浜の向こうに京浜急行 |
−社頭案内板− 由緒 品川神社の由来は、後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理乃咩命を勧請して、品川大明神と称した。後醍醐天皇の御世(1319年)に、当国の守護職二階堂出羽入道道蘊が、宇賀之売命を勧請し社殿等を再建し社地を吉端岡と名付けた。永享四年正清入道幸純社殿等を再建する。(幸純は道蘊の子孫なること南品川海晏寺に詳かなり。)文明十年六月太田道灌、素盞鳴尊を勧請する。慶長五年徳川家康関ヶ原の戦いに出陣の折神前にて祈願し太太神楽を奏し、後に神輿、面等奉納する。寛永十四年将軍家光の命により東海寺鎮守と定められてから幕府の御修復所となり、元禄七年将軍綱吉社殿等再建、焼失した後、嘉永四年将軍家慶社殿再建した。明治元年准勅祭神社に定められた。大正十三年京浜国道開通にともない境内地の一部用地となる。昭和七年九月新東京八名勝選定の折第三位となる。現社殿は昭和三十九年十月社務所と共に島本正一氏他氏子の協力により再建され、北品川、東五反田、南品川の一部の鎮守として敬われ親しまれている。鎮座地は、品川区北品川三丁目七番十五号。 −『平成祭データ』− |