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妙見社
みょうけんしゃ
群馬県高崎市引間町213
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群馬県高崎市にある。
前橋駅の西5Kmほど、国分寺跡の近く、引間町に鎮座。
17号線を西へ利根川を渡り、127号線に入って関越自動車道を越えて北上。
染谷川を渡った場所に境内入口がある。
境内入口には、左に「妙見尊」、右に「妙見寺」とあり、
当社境内の西側が妙見社、東側が妙見寺が隣り合わせにある、そんな神社。
参拝は晩秋の午後。境内中央に黄金色に輝くイチョウの木が聳えていた。
妙見社は妙見堂とも呼ばれており、社殿は、お堂のような寄棟造。
背後の本殿は天保十年に再建された入母屋造。
前橋市の総社神社と同じ大工の作であるらしい。
妙見社、および妙見寺の創祀年代は不詳。
霊亀年間から天平年間(715〜730)の頃と考えられている。
『式内社調査報告』の式内社・小祝神社の項によると、
上野国神名帳に、「小祝」と称される神社が三社あり、
一つは「従一位小祝大明神」で、高崎市石原町鎮座の式内社・小祝神社。
一つは、「従四位上小祝明神」とある、冷水の石祠である小祝神社。
一つは、「従三位息災寺小祝明神」とある社で、息災寺(現在の妙見寺)の鎮守神であるという。
ということで、当社・妙見社は「息災寺小祝明神」と呼ばれた古社ということになる。
境内の由緒石碑によると、妙見寺の正式名は「天台宗三鈷山吉祥院妙見寺」
西の法淨院、南の貴法院と妙見寺は、妙見社の別当寺であったとある。
妙見寺の由緒書によると、花園星神記に
和銅七年秋、上野大掾忠明という人が妙見寺に来て一宿、
夜半目覚めて庭に出ると乾(北西)の方に光明が立ちのぼった。
不思議に思って侍臣を遣して調べると冷水村の小祝池からと判った。
そこで水底をさぐらせると、目が赤く首の白い不思議な亀を得た。
忠明は早速、時の帝に献じたところ大変喜ばれ
和銅七年九月二日、年号を霊亀と改めたという。
本殿の屋根に葵紋が付けられていたが、当社の神紋は未確認。
境内に入って右側に塚のようなものがあり、境内社の祠が祀られていた。
詳細は未確認だが、何か気になる雰囲気ではあった。
境内入口 左「妙見尊」、右「妙見寺」 |
金刀比羅社 | 境内社 |
境内 |
左が妙見社。右が妙見寺 |
妙見社 | 妙見寺 |
妙見社本殿 | 妙見社社殿 |
手水舎に石祠 | 梵鐘 |
妙見社及び妙見寺
妙見寺の草創に関しては、拠るべき史料が無い、花園星神記と
言うものがあり、和同七年秋上野大掾忠明と言う人が妙見寺に来
て一宿夜半目覚めて庭へ出、四方を見渡したところ、乾の方に光
明が立ちのぼり、不思議に思って侍臣を遣して調べると、現在の
冷水村小祝池からと判った、そこで水練に達者な者に水底をさぐ
らせたところ、目が赤く首の白い不思議な亀を得た。忠明は早速
侍臣を遣し時の帝に献じたが帝は大変嬉ばれ和同七年九月二日年
号を霊亀と改えされたと言うことになっている。続日本記に宝亀八年八月上野国群馬郡の戸五十煙、美作国勝田郡 の戸五十煙を、河内国石川郡春日村の妙見寺に朝廷より施入され たとの記録があり、当地の妙見寺が如何に由緒ある寺院であるか を證明している、この外には東国分出土の応永十七年の梵鐘や妙 見社裏にある奉書写大乗妙典一千部読誦供養塔(享保十二年)の応永 三年銘台石から、応永の頃非常に栄えた事、又総社長尾氏の厚い尊 信と庇護を得た事などを知り得るのみである。大山美雄氏所蔵寛 永十二年引間村帳末尾には尚妙見寺とあり、その後に於て一方で は寺に、他方では神社として祀ったものと察せられる、現在西の 建物が神社であり、東のものは寺院である事は誰もよく知るとこ ろである。天慶三年将門の乱の後、平良文は武яコ岡へ奉遷し、 次に秩父の妙見様として崇敬され、鎌倉時代には平良文の子孫千 葉氏により房総の各地へ或は神社に又は寺院として勧請されてい るのは尽く当地の妙見様なのである。最近岐阜県郡上大和村より その地の妙見社が当地より勧請されたものとして調査に来られ驚 いたのである。花園の妙見寺とは昔萩が沢山植えられ萩の名所と して聞えそれから名を得たものであった −境内案内− 妙見社殿改修工事の記
当妙見寺の創建は霊亀年間から天平年間(七一五〜
七三〇)頃 河内国天白山妙見寺より勧請されたと伝え
られ、これが現在ほぼ定説となっている。続日本記三四
巻によれば宝亀八年に上野国引間の五十烟を妙見寺に施
すとある。此のように古い歴史のある妙見社はその後、
西の法淨院、南の貴法院及び現在の三鈷山 吉祥院 妙
見寺の三寺院を別当寺として近隣の信仰を集めて繁栄し
て来た。今回改修工事を行った本殿及び拝殿は創建以来
再三の戦禍により被害を被り、ついに文化四年(一八〇
七)には大火のため全焼したが、熱心な檀信徒の熱意に
より長い年月を経て苦難の末天保十年(一八三九)に完
成したのが現在の建物である。此のように、永い間歴史の狭間に翻弄されながら栄え てきた社殿も老朽化が進み平成十年春の大雪と秋の台風 により倒木や雪なだれによる甚大な被害を受けたが、檀 信徒各位の熱い復元改修の願いと、群馬町教育委員会よ り文化財保護事業として二百万円の多額の助成を頂戴し、 今回見事に旧倍の風格無双の霊堂として復興されたので ある。 −境内石碑より抜粋− |