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玉崎神社
たまさきじんじゃ
千葉県旭市飯岡2126
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千葉県旭市にある。
JR総武本線飯岡駅の南東6Kmの飯岡に鎮座。
126号線から飯岡漁港へ向う30号線へ進むと、
漁港の近く、道に面して南西向きに石の鳥居が立っている。
鳥居をくぐり、参道を歩くと境内入口には朱の鳥居。
さらに整備された参道を歩くと、正面に社殿がある。
参道の右手は、駐車スペース。
そこに車を停めて、参拝を開始した。
参拝は九月初旬の休日。
レンタカーを借りて下総を回り、
晴天の午後に当社に到着した。
青空で気持ちの良い風景なのだが、
陽射しが強く、写真はかなり失敗ぎみ。
境内の社殿は立派な構造で、
拝殿の後方に、流造の本殿がある。
本殿の後方には、飯岡石による石塁がある。
通称は、明神様。
社伝によると、景行天皇十二年の創祀。
日本武尊東征のおり、相模から上総へ向う途中海難に遭い、
御后・弟橘姫命が入水して、無事上総到着。
さらに、海路、葦の浦より下総玉の浦へ。
日本武尊は、その霊異を畏まれ海上平安、夷賊鎮定のため
玉の浦の東端「玉ヶ崎」に海神玉依毘売命の神霊を祀ったという。
後、「玉ヶ崎」を「龍王岬」と言うようになり、
龍王宮と称されるようになった。
『神道集』に「玉崎大明神者、此国二宮」「同本地十一面観音」とあり
当社を下総国二宮とする説もあったようだ。
また、永禄期に、上総国一宮である玉前神社が戦火を避けて
御神体を当地に移したと伝えられている。
境内には幾つかの境内社がある。
境内入口近くに、八重垣神社があるが
その他は小さな石祠で、名前の確認は忘れた。
参道入口 | 境内入口 |
拝殿 | 社殿 |
境内 |
本殿 | 本殿周囲の石塁 |
本殿は、一間社流造の標準的な形式を見せ 屋根は始め草葺であったが、後に、銅板葺に 改められ、現在のものは、昭和五十六年に改修 葺替えられたものである。構造上、虹梁、 大瓶束、拳鼻等に中世末期の様式がと どめられ、蟇股には、江戸時代の様式が加え られ、本県におけるこの時代の社殿建築 の傾向がよく示されている。 なお、正面庇部は、板戸の材料が新しく 後年取り付けたものとみられ、もともとは、 吹放ちであったと思料される。さらに、幣殿 拝殿は、天保年間の改築によるものである。 −境内案内板より−
六社大神の「神宝玉石の記」には、応永二十三年(一四一六年) 飯岡の神原沖に霊光があり三日にわたり浦人が祈ると二つの明珠 が浜に上った そこで玉ヶ嵜明神の分霊として一顆は龍神宮に一 顆は六社大神に祀った 霊験はあらたかで 浜は大漁にわいた 翌二十四年には 招請して龍神宮と六社大神に神幸が行われたと 記している 円長寺には仏教説話として中興の祖長貴上人を龍女 の話が伝えられている その後庚辰の宝暦八年文政三年そして明 治十三年と神幸が行われた 昭和三年は戊辰年であったが昭和天 皇御即位の吉年であり神幸を行った 今回はそれより六十一年目 に当るので昭和六十三年秋十月に斎行するところであったが は からずも昭和天皇崩御により平成元年五月二十七日より三日間に わたり神幸した 祭儀は六社大神龍神宮 日月神社 熊野神社 水神社 宝石稲荷神社と円長寺を参拝し 五十艘の漁船に護られ た御座船による海上渡御 野手八軒浜での潮汲神事と古式に則り 斎行された 町内では神輿山車の出御や稚児行列その他の神賑行 事を行った 記念事業として宝永元年の神輿の修造 御神扉の改 修 鳥居の建立 参道 外玉垣 社務所玄関屋根の修築などを成 就した ここに氏子崇敬者の名を刻し幾久しくこの神事が清らか に 穏やかに継承されることを祈念するものである −境内石碑より−
当町としては、貴重な記念物です。
−境内案内板より− 御祭神 当神社の御祭神は、主神として玉依毘売命(たまよりひめのみこと)を祀り、日本武尊(やまとたけるのみこと)を配祀申し上げる。 玉依毘売命と申すは、綿津見命(わたつみのみこと)の御女として畏くも鵜鵜葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の御后神にまし、神武天皇の御生母にあたらせ給う。古来、海上鎮護、漁業の大神として、また、除厄開運、結縁安産育児の守護神として崇敬されている。 日本武尊は、古来、武神として国民の均しく崇敬し奉る大神であらせられる。 御由緒 当神社は、景行天皇十二年の御創祀と伝えられている。人皇第十二代景行天皇の皇子、日本武尊が、御東征のみぎり、相模より上総にお渡りになろうとして、海難に遭われた時、御后弟橘姫命(おきさきおとたちばなひめのみこと)が「これは海神の御心に違いない」といって入水したことによって、無事上総の国に着くことができ、更に、海路、葦の浦より下総玉の浦にお渡りになられた。そこで尊は、その霊異を畏まれ海上平安、夷賊鎮定のために玉の浦の東端「玉ヶ崎」に海神玉依毘売命の神霊を斎き奉るによるものである。後世、「玉ヶ崎」を「竜王岬」と言うようになったのは、海神を竜宮の神に付会して、竜王の鎮まり坐す崎と言うようになったものである。 「玉の浦の清き渚を行きかへり浪にかがやく月をみるかな」海上胤平(うなかみたねひら) 「夕汐に月さへみちて打ちよする浪もかがやく玉崎の浦」海上胤平 「つらつらに見れどもあかず満潮の入りてはかへる連浪の磯」大国隆正(おおくにたかまさ) 中古、当神社は、三崎庄横根郷(みさきのしょうよこねごう)玉ヶ崎大明神、玉の浦総社玉ヶ崎大明神等と称せられ、武門武将の崇敬厚く、平貞盛、源頼義、源義家、源頼朝、日野俊基、千葉常胤等が参拝され、それぞれ祈願や報賽のために報幣や社殿の造営にかかわられた。御造営のことは、元禄十三年に松平伊豆守へ書き上げた当神社由緒記によると、崇徳天皇の長承年間から明らかに古文書に見えている。しかし、竜王岬の欠損がはなはだしく、加えて、天文二年に兵火にかかって社殿は烏有に帰したので現今の地に御遷座申し上げたのである。 江戸時代に入ってからは、武人の崇敬はもとより、平田篤胤(ひらたあつたね)、平田銕胤(ひらたかねたね)、斉藤彦麿(さいとうひこまろ)、高田与清(たかだともきよ)、大国隆正のような文人が参詣している。この頃の飯岡は、九十九里の代表的な漁場として隆盛を極めていたので、相模、三河、紀伊、伊予、阿波、和泉、安芸等の国々より移住するものが多かった。また、庶民の崇敬も厚く、現存する当時の寄進物によってもその間の消息をうかがうことができる。 天保水滸伝に名高い飯岡助五郎は相模の生まれで、この地に渡って来て社領地に住み(当時の借地証文が保存されている)、天下に任侠を唱われた。当時、当神社の潮祭(陰暦九月十五日)には、一党を引きつれ参拝し、竜虎相打つ奉納角力を執行した。今、境内にある「力石(六十貫)」は、当時、彼が力比べや雇用の条件のために使用したものであると言われている。 亨保十四年には、地頭石束正詮、海野恭隆が当神社に祈願し、その神験が顕著で浜は大漁にわいた。そこで、時の神祇官領、従二位卜部朝臣兼雄に告げて、宗源の宣旨を乞われ、神階正一位を賜ったのである。拝殿内御神額はその時のもので、将軍義宗公の筆と伝えられている。 明治になって、諸事一新したことを機にして、神社名を「玉崎神社」と改称し、明治十九年一月十八日に「郷社」に列せられ、同三十九年十二月二十五日、本県より幣帛供進神社に指定される。爾来、星霜を経、御本殿は昭和四十八年三月二日、県有形文化財に指定され、御神宝狗一対はその形状面貌等特色ある逸品であることから平成三年三月十八日、同じく県有形文化財に指定され、今日「飯岡の明神様」として御神威赫々たるものがある。 −『平成祭データ』− |
【 玉崎神社 (旭市飯岡) 】