[HOME] > [神社記憶] > [関東地方] > |
|
一之宮貫前神社
いちのみやぬきさきじんじゃ
群馬県富岡市一ノ宮1535
|
|||
式内社 上野國甘楽郡 貫前神社 名神大 |
上信電鉄上州一宮駅の西1Kmほど。
南の道路から階段を上ると赤い大鳥居がある。
通常は、東の鳥居から車道を登ると、総門の前の駐車場へ。
総門をくぐると、下りの階段が参道となっており、
社殿を見下ろしながらの参拝となる珍しい形式。
同じく階段を下る熊本の草部吉見神社の案内には、日本三大下り宮として、
当社と、草部吉見神社、宮崎の鵜戸神宮が紹介されていた。
中世以降、抜鉾明神と称される場合が多いが、
貫前神とは、本来は別の神。
つまり、「抜鉾」「貫前」の二神を祀る神社だった。
「抜鉾」が男神・経津主神、「貫前」が女神となる。
『神道集』では、当社・貫前神社の祭神は、女神であったとし、
南天竺狗留吠国の長者・玉芳大臣の五女。
また、笹岡山(荒船山)の峯に船を逆さに伏せ、その船の中に保った河水は、
火の雨が降るときにこの水で消すべしと誓ったという。
水神・水源神、あるいは周囲の火山に対する対処神かもしれない。
また、一之宮であった赤城大明神が、
財の君である、この女神を他国へ渡してはならないと、
女神に一之宮を譲ったという。
さらに、赤城神が絹機を織っていたが、絹笳が不足したが、
この女神から借りて織り上げたとも。
ということで、当社の女神は、水神・財神・機織の神と実に多彩だ。
当社の西方に荒船山(荒船神社)があり、東方には小舟神社がある。
小船神社は、当社の祓戸とされ、東西のライン、荒船−貫前−小舟が女神の系譜。
当社の本殿には「雷神小窓」という緑色の雷神を描いた窓があり、
南方の稲含山(稲含神社)の方向を向いている。
また、北方には咲前神社があり、前宮・鷺宮とよばれている。
いずれも経津主神を祭神とし、南北に武神・雷神のライン、稲含−抜鉾−咲前が存在する。
「雷神小窓」 |
当社はその二本のラインのクロスする、非常に興味深い位置に存在する。
なんといっても、下り階段の参道が特徴的。
近所の学生が、トレーニングをしていたのも印象的だ。
楼門や社殿も華麗な造り。
赤い社殿に、褐色の屋根が美しい。
車道参道の大鳥居 |
階段上の鳥居 | 総門 |
参道階段を下って境内 |
参道、下から | 楼門 | 拝殿 |
拝殿 | |
本殿 |
御創建は社伝によりますと、碓氷
郡東横野村鷺宮に物部姓磯部氏が
奉斎し、次いで南方鏑川岸に至り、蓬ヶ丘綾女
谷にお祀りしたのが安閑天皇元年(五三一)三月
十五日と伝えています。 天武天皇白鳳二年(六七四)三月十五日に初度の 奉幣があり、醍醐天皇の延喜の制には名神大社 に列せられ、上野國一之宮として朝廷や民間の 崇敬を衆め、明治四年國幣中社に列格されまし たが、終戦にともなう社格制度の廃止により、 一之宮貫前神社と称し現在に至っております。 現在の社殿は、徳川三代将軍家光公の命により 寛永十二年(一六三五)の御造営で、江戸初期の 華麗な造りで、特に本殿、拝殿、楼門は国の重要 文化財に指定されています。 −『一之宮貫前神社リーフレットより』− |
総門の左の仮殿敷地、当社社殿を見下ろす位置に境内社がある。
左に二十二末社、正面に日枝・内宮・外宮と並んでいる。
二十二末社とは、
竈,菅原,沓脱,速玉男,粟島,春日
奇八玉,諏訪,八幡,事解男,咲前,浅間
高靇,少彦名,長田,伊邪那岐,八坂,白山比咩
熊野,水分,熱田,扣。
領地内に祀られていた各社を、寛永十二年の御造営の時にまとめたもの。
内宮・外宮も寛永十二年に天狗沢峰通り字伊勢屋から遷座。
日枝神社社殿は、寛永十二年以前の本社本殿。
近在の神社を合祀しており、現在十七柱を祀る。
仮殿敷地の境内社 |
二十二末社 | 日枝,内宮,外宮 |
参道横には月読神社。社殿は、寛永十二年以前の本社拝殿。
こちらも、近在の神社を合祀しており、十七柱を祀る。
本殿横の垣内には抜鉾若御子神社が鎮座。
本殿後方の藤太杉は、俵藤太が平将門討伐の際に当社に参拝し、
年の数(36)の杉苗を奉納した、その一本。
総門前に唐銅製灯籠 | 参道左の月読神社 | 本殿左の抜鉾若御子神社 |
本殿後ろの藤太杉 |