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稲荷鬼王神社
いなりきおうじんじゃ
東京都新宿区歌舞伎町2−17−5
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東京都新宿区にある。
大江戸線、副都心線の東新宿駅から西へ100mほど、
新宿区役所から北へ500mほどの位置に鎮座。
境内入口は西向き。
鳥居の前にアコーディオンタイプのゲートあるので
夜間は閉められているのかもしれない。
その鳥居の左手、ゲートに隠れて
力士様と呼ばれる、力士像に支えられた石の水鉢がある。
もとは、加賀美某の庭内にあって夜中に水音を発するという怪異があり
加賀美某が、宝刀・鬼切丸で切り付けたが、その後も災難が続いたので
天保四年、鬼切丸(翌五年に盗難)と共に当社に寄進されたもの。
今も力士像に刀傷が残っているとか。
これに水を注ぐと熱病や子供の夜泣きに霊験があるとか。
社殿は拝殿本殿ともにコンクリート造。
本殿の左手に、裏参道入口近くに富士塚があり浅間神社が祀られている。
また、境内左手、社務所の横に三島神社が祀られ
新宿山の手七福神中の恵比須神として崇敬されている。
稲荷神社と鬼王神社を合わせ祀った神社で、
社殿扁額にも稲荷鬼王神社と記されているが
正式名は稲荷神社、通称は鬼王神社。
稲荷神社は、承応二年(1653)将軍家綱の頃、
当所の氏神として稲荷大明神を勧請されたもの。
鬼王神社は、宝暦二年(1753)
当所の百姓田中清右衛門が紀州熊野から鬼王権現を勧請し、
天保二年(1831)、稲荷神社に合祀されたという。
ただし、熊野には鬼王権現は現存していないらしい。
この鬼王権現は、湿疹・腫物などの病に霊験があり、
当社に豆腐を奉納して、治るまで豆腐断ちをするという。
鬼は豆が嫌いなので、豆を断つのだろうか、
当社の節分は「福は内、鬼は内」と唱えるようだ。
この鬼王神社は、一説には平将門の霊を祀り、
鬼王とは将門の幼名「鬼王丸」に由来するという説もあるらしい。
また、鬼切丸は鬼を切る宝刀で、切れなかった鬼が水鉢として境内にある。
この鬼を平将門と重ねるのは、考え過ぎだろうか。
狛犬の台座や賽銭箱、社殿の扉に三つ巴紋と稲紋が刻まれていた。
稲紋が稲荷神社の紋で、鬼王神社は巴紋らしい。
境内入口 | 境内参道と山犬の狛犬 |
鳥居脇に力士手水鉢 |
社殿 | 社殿 |
境内 |
本殿 | 社殿 |
三島神社(恵比須様) | 亀岩 |
浅間神社(小さな富士塚) |
稲荷鬼王神社由緒 古来より大久保村の聖地とされたこの地に承応二年(一六五三年)、当所の氏神として稲荷神社が建てられました。宝歴二年(一七五二年)紀州熊野より鬼王権現(月夜見命・大物主命・天手力男命)と当地の百姓、田中清右衛門が勧請し、天保二年(一八三一年)稲荷神社と合祀し、稲荷鬼王神社となりました。 この鬼王権現は、湿疹・腫物を初め諸病一切に豆腐を献納し、治るまで本人或は代理の者が豆腐を断ち、当社で授与される「撫で守り」で患部を祈りつつ撫でれば必ず平癒するといわれ、明治十五年頃まで社前の豆腐商数件がこの豆腐のみにて日々の家計を営んでいたといわれたほどでした。今日でも広く信仰されています。 尚、明治時代に旧大久保村に散在していた、火の神である火産霊神の祠や、盗難除けの神などの大久保村の土俗の神々が合祀されました。 「鬼」というと私達はとかく悪いイメ−ジをもちがちですが、古来、「鬼」は神であり「力」の象徴でもありました。又、「鬼は悪慮を祓う」といわれ、すべての災禍を祓う力があります。その為、鬼を祓ったり、鬼の名のつく社寺は全国に幾つもあります。しかし、その「鬼」の王様という意になる「鬼王」という名のある社寺は全国で当社のみです。この為、江戸時代は近在の農家の人達だけでなく、江戸から武士や商人、職人と多くの人が参拝にまいりました。現在では地図でみる新宿の中央にある唯一の神社としても注目を集め、全国から当社の御神徳を得ようとする方々が詣られております。 大祭は九月十八日です。 −『平成祭データ』− |
加門七海の著書『将門は神になれたか』(文庫版は『平将門魔方陣』)には、
当社などの江戸における平将門ゆかりの神社が、
一種の魔方陣として配置されているのでは、と記されており興味深い。
雑記帳『平将門魔方陣 「将門は神になれたか」』参照。
それによると、鬼王神社は北斗七星の輔星として、摩多羅神を象徴しているのではないかと。
摩多羅神は大黒天と習合し、大黒天は荼枳尼天とも重なる死に関る神。
そして荼枳尼天は稲荷と習合しており、当社に相応しいかもしれない。