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羽梨山神社
はなしやまじんじゃ
茨城県笠間市上郷3161
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式内社 常陸國茨城郡 羽梨山神社 |
茨城県笠間市(旧岩間町)にある。
常磐線・岩間駅の西北西3Kmほどの上郷に鎮座。
355号線から280号線へ入り、2Kmほどの突き当りに境内がある。
境内入口は南向きで、280号線から少し入った場所。
入口には石の鳥居(元禄年間建立)が建ち、
鳥居をくぐると正面、境内中央に社殿がある。
境内は鬱蒼とした木々に覆われた杜。
本殿の後方には、御神木の2つに分かれた杉があり
天然記念物に指定されているらしい。
参拝は10月休日の午後。
茨城旅行最終日の最後に訪れた神社。
ということで、社殿には低くなった日射しの木漏れ日が斑な陰を落とし、
学校の放課後のような哀愁を感じた参拝だった。
創祀年代は不詳。
三代実録に、羽梨神とあり
貞観十二年(870)八月二十八日、従五位下から従五位上に
さらに、仁和元年九月七日、正五位下を授けられたとある古社。
往古は、羽梨山(現在の難台山553m)中腹にあったが、
現在は、羽梨山東麓に地に遷っている。
社伝によると、
日本武尊東征の途次、老翁・媼が山菓を献じ
兵卒の飢渇を癒した。
名を問うと、磐筒男・磐筒女であるといい、
日本武尊凱旋の際、朝日丘の榊に羽々矢・果実を供して報賽した。
故に、朝日丘を羽梨山と称するようになったという。
また、この山に桜が多く、
春になると、雪山のように真っ白になるところから花白山と呼ばれ、
天智天皇三年(664)、人々は花の美しさに感嘆して
山中に祠を建てて、木花咲耶姫命を祀り、
花白山神社と称したといわれ、後に花志山、羽梨山へと変化したとも。
また、筑波山に葉が茂っているのに対し、
当山には木が無かったため、羽梨山となったとも。
中世、宍戸家政が当社を崇敬し、宍戸三十三郷の鎮守としたが
天文十一年(1542)兵火に罹り焼失して、衰退したという。
また、昔一人の老翁がこの地に来て
神社を建てることを勧めた。
この老翁が熊野権現の化身であり、羽梨山東麓に熊野権現を祀った。
この熊野権現が現在に羽梨山神社であるという。
羽梨山神社は、もとは東の山中、現在地から八丁(900m弱)の位置に在ったが
兵火に焼失し、熊野権現の地に遷座されたと言われている。
当社は、式内社・羽梨山神社に比定されている神社だが、
それを疑問とする説もあるので紹介。
『新国誌』園部状に、小田城(つくば市小田)の小田政治が
小田から出て羽梨之宮(当社)で軍勢を揃え、
霞ケ浦を渡って小川に向かうとあり、
小田から当社経由で霞ヶ浦を渡るのは、かなりの遠回りとなり無理がある。
よって、羽梨山神社は、小田から霞ヶ浦の間、石岡市南部か、かすみがうら市にあるとする説。
そこから、胎安神社か子安神社が羽梨山神社かもしれないと記されている。
また、『神祇志料』によると、
『大同類聚方』に「茨城郡拜師里 羽梨山之神社」と記されており
村上・染谷の龍神社が、村上神&羽梨神なのかもしれないとも。
拝殿に三巴紋を染めた幕がかかったいた。
『全国神社名鑑』にも神紋は巴とあり、
三巴紋が当社の神紋だろう。
社頭 |
境内 | 社殿 |
境内 |
本殿の後方に御神木のスギ |
−境内由緒石碑− 西茨城郡岩間町上郷に鎮座し、旧郷社、祭神は木花咲耶姫命を祀る。創立年代は不詳であるが、社伝に、「上世磐筒男、磐筒女の勲績を称えて、磐麻国朝日丘に此神を鎮め奉るという。昔日本武尊東征途に磐麻に到りて陣を布く。適々兵卒渇し且つ飢ゆ、時に一片の山果を持てる老翁及び老媼あらわれ、その山果によってこの難を救はる。尊は何人なるやを尋ねしに「磐筒男・磐筒女」なりと、尊凱旋の後この地に到り朝日丘にこの神を祀り、羽々矢二筋及び果実を供し、前年の恩に報賽す」という。是より羽梨山の称あり。 その後坂上田村麿を始め幾多の武将祈願を篭め報賽の物品を神納する。天文年間兵災に罹り、神殿悉く焼失為に旧籍を失う。かの源頼義、義家も矛・太刀・鎧及び神馬を奉納されたというが、現在神馬の鐙のみが宝物として現存している。後朝日丘より、現在地に遷祀する。徳川幕府祀田五石の章書を供す。延喜式内小社に列し、明治六年四月一日郷社に定められた。 −『平成祭データ』− |