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近津神社
ちかつじんじゃ
茨城県久慈郡大子町上野宮3208
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茨城県大子町にある。
八溝山と下野宮駅の中間地点、上野宮に鎮座。
八溝川にそって走る道路の北側。
階段を上ると、緑の参道が続き、神門の奥に社殿が南面している。
社殿の前、左右には立派な巨木が聳えており、
背後の山と一体となって、自然の神域の美しさが際立つ。
でも、実際は緑の参道は、草が茂り、朝露に濡れた草で膝下はずぶ濡れ。
八溝山の麓・上野宮に位置し、
八溝山から流れる八溝川の下流・下野宮にも近津神社が存在する。
当社・上野宮の近津を上宮とし、下野宮の近津神社を下宮、町付の近津神社を中宮として、
「近津三社」と呼ばれており、八溝山の麓社群を構成していたと考えられる。
残念ながら町付の近津神社には参拝していないのだ。
社伝によれば、文武天皇慶雲4年(707)藤原富得により創建。
下野宮の近津神社と由緒伝承は同じものが残っており、
同時期に、セットとして祀られたのかもしれないし、
分祀された当社の伝承が、本社の由緒と混同されてのかもしれないが、
その経緯・詳細は不明。
下記の『明治神社誌料』の記述は、下野宮の近津神社のものだが、
その内容は、当社・上野宮の近津神社のもののように見える。
拝殿に当社の由緒が記されていたが、達筆墨書で、一部読めず。悔しい。
境内入口 | 鳥居 | 社号標 |
神門 | 社殿 |
社殿 |
境内社 | 境内社 |
社殿から参道 |
郷社 近津神社
祭神 級長津彦命 面足命 惶根命創建は社傳に拠るに、文武天皇慶雲四年、藤原富得、夢に神あり、白羽の矢を授けて曰く、吾近勝明神なり云 云と、因て八溝山の悪鬼を除去せしむるを得たりと、此事奏上に及びしかぱ、勅して此地に社を営ましめら る、是れ本社の創建なりと云ふ、本社は、元と陸奥に属し、彼の陸奥白川郡馬場近津明神の下宮なりと、後小 松天皇應永十三年四月源兼保、地三千貫を寄奉る、但、之れ義家の例に依ると、次いで永正十一年六月、佐竹 義治更に六百五十貫の地を寄せ奉りしが、徳川氏天下の権を握るに至り、社領三十六石八斗、及除地十五石 八斗三升四合を寄奉る、明治維新一度村社に列せしが、後九年郷社に列す。 社殿は本殿、拝殿、其他神楽所あり、本殿は神明造りにして南に面す、壮麗にあらざるも瀟洒却て神威の高き を仰がしむ、境内は千二百七十五坪(官有地第一種)及近く編入せられし上地林二反七畝十七歩より成る、「前 に八溝川を控ヘ、後に八溝山を負ふ、而かも東西老檜天を蔽ふ、蓋、自然の神地たり。 −『明治神社誌料』参考として下野宮の近津神社由緒を記載− |
【 近津神社 (上野宮) 】