[HOME] > [神社記憶] > [関東地方] > |
|
佐志能神社
さしのうじんじゃ
茨城県笠間市笠間字城山3613
|
|
式内社 常陸國新治郡 佐志能神社 |
茨城県笠間市にある。
笠間駅の北東3Kmほどにある佐白山の頂上に鎮座。
佐白山には笠間城跡があり、県立自然公園になっている。
佐白山の西麓から山頂までは道路が延びており
山頂直下まで車で登ることができる。
車道を登り始めてすぐの場所に、大黒石がある。
鎌倉時代、佐白山の正福寺僧兵と徳蔵寺僧兵が戦い
正福寺僧兵が山頂から、この石を落としたらしい。
車道をさらに進み、大手門手前の千人溜駐車場に車を停め
そこからは少し歩いて登る。
登りきった場所が、笠間城跡。
鎌倉時代に築城された、関東では珍しい山城だそうだ。
大黒石 | 笠間城跡石碑 |
裏側に穴 |
大黒石
鎌倉時代の初め、佐白山の僧兵と、七会の徳蔵寺の僧兵が
その勢力を争って戦った。佐白山の僧兵は戦いに敗れて佐白
山頂近くまで逃げのび、山上にあった大黒石をころがした。徳蔵寺の僧兵は、ころげ落ちる大黒石の下じきになり多く の死者が出たため、佐白山の僧兵は、あやうく難をのがれる ことができた。大黒石は、そのときここまでころげ落ちて止 まったといわれています。この大黒石の中ほどに小穴があり 大黒のおへそといわれ、このへそに小石を三度つづけて投げ そのうち一つでも入れば、幸せがあると伝えられています。 −案内板− 笠間城跡
ここ佐白山は 古くから正福寺や
百坊があって 信仰の山として栄え
ていた 鎌倉時代の初め 正福寺と
徳蔵寺の勢力争いのため 下野国か
らつかわされた藤原時朝が 正福寺
と百坊を滅して城を築き 笠間氏を
名乗ってこの地方を支配した 笠間
氏は十八代續き天正十八年(一五九
〇年)に亡んだ その後 蒲生 松
平 小笠原 永井 浅野 井上 本
庄などの諸氏が相継いだが 延享四
年(一七四七年)から廃藩まで 牧
野氏の居城となった 明治初年 本
丸下屋敷などの殆どがこわされ 今
は苔むす石壘を残すのみとなったが
自然の要害をたくみに利用した関東
地方では珍しい山城の遺跡である−案内石碑− |
笠間城跡の奥に、当社への参道がある。
もとは天守台があった場所のようで、
参道階段脇には、天守台の石垣が残されている。
階段を登りきった場所に、社殿がある。
山頂付近には巨石があり、拝殿前の手水舎も自然石を穿ったもの。
拝殿の後方に本殿があり、本殿周囲の土塀は、
天守の瓦を利用したものらしい。
創祀年代は不詳。
佐白三所大明神、三白権現とも称された神社で、
式内社・佐志能神社の論社の一つ。
当初は佐白山(佐志能山)山頂に鎮座していたが
建長年間、藤原時朝による笠間城築城により
祠を下市毛字田宿(黒袴)に遷し祀っていたが
明治五年、笠間城廃城に伴い、旧社地に戻された。
一説には、時朝築城以前、山中に六座の神が鎮座していたが
時朝入城後、一旦廃れたらしく
その後、六社権現として再興された。
のこ六社権現の内、特に古い由緒を持つ
阿武・黒袴・小聖の三社は
一祠に祀られ、佐白三所大明神と称されたという。
明治六年、村社に列し、
明治八年、八幡神社以下五社を合祀した。
参拝時には境内社に気付かなかったのだが
『茨城県神社誌』には以下の境内社が記されている。
神明社(大日孁尊)、鹿島神社(武甕槌命)、
八坂神社(須佐之男命)、熊野神社(櫛御気野命)、
伊都伎島神社(市杵志麻比賣命)。
参道 |
参道 | 参道 |
境内 |
本殿 | 社殿 |
拝殿 | 自然石の手水石 |