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金王八幡宮
こんのうはちまんぐう
東京都渋谷区渋谷3−5−12
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旧郷社 |
東京都渋谷区にある。
渋谷駅の東500mほど、六本木通りから南へ入った場所に境内がある。
境内は南東向き。道路に大きな鳥居が立っている。
鳥居をくぐり参道を進むと突き当たりに境内入口。
階段の右手に「金王八幡宮」と刻まれた社号標。
階段を上ると石鳥居があり、赤い神門をくぐると境内。
参道左手に手水舎があり、
参道正面に入母屋造の赤い拝殿がある。
拝殿の前に「渋谷城の砦の石」が置かれている。
この辺りは平安時代末期から渋谷氏一族の居館(渋谷城)跡だったが、
大永四年(1524)、北条氏により焼き払われたらしい。
この渋谷氏居館が、渋谷という地名の起り。
狛犬の台や賽銭箱、社殿には三つ巴紋が付けられている。
三つ巴は、八幡宮に多い紋で、当社の神紋も巴紋。
参拝は東日本大震災のの当日。
渋谷から新宿、池袋へ北上する途中、
高田馬場で震災に遭遇した。
社伝によると、第七十三代堀河天皇の御代、
寛治六年(1092)正月十五日、渋谷氏の祖・河崎土佐守基家の創祀。
一説には、康平六年(1063)、石清水八幡宮よりの勧請とも伝えられ、
矢盛ノ庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一木、今井。)の産土神。
秩父別当であった平武基は、源頼信の平忠追討に大功を立て
軍用の八旗を賜はり、その中の日月二旗を秩父妙見山に八幡宮として鎮祭。
武基の子武綱は、嫡子・重家と共に源義家の軍に従ひ、
奥州金沢の柵を攻略せる功により、
名を河崎土佐守基家と賜はり、武蔵谷盛の庄を与えられた。
これは八旗の中の月旗の加護であると、
月旗を奉じて八幡宮を勧請した。
嫡子・重家の時、渋谷の姓を賜り、
渋谷氏は八幡宮を中心に館を構築して居城とし、
代々氏族の鎮守として当社を崇めた。
渋谷重家夫妻が、当社に子授け祈願した時、
八幡神の霊夢により永治元年(1141)八月十五日に金王丸が誕生。
金王丸十七歳の時、源義朝に従い保元の乱に出陣。
平治の乱の後に出家して義朝の御魂を弔った。
のち、源頼朝より義経追討の命を受け、
文治元年(1185)十月二十三日、義経館に討ち入り最後を遂げた。
頼朝は、金王丸の忠節を偲び、
鎌倉の地よりこの地に桜の木を移植して「金王櫻」と名付けた。
当社は、元は渋谷八幡宮と称されていたが、
この金王丸の名声により、金王八幡宮と称されるようになった。
明治五年村社に列し、明治十六年郷社に昇格した。
拝殿の横に渋谷区指定天然記念物の金王桜がある。
境内左手には御嶽神社
(櫛眞知命、少名毘古那命、大己貴命、日本武尊)。
御嶽神社と神楽殿の間には玉造稲荷神社(宇賀御魂命)。
境内右手には渋谷金王丸常光を祀る金王丸御影堂。
御影堂には、金王丸が保元の乱出陣の折り
自分の姿を彫刻し母に残した木像が納められており、
毎年三月最終土曜日の例祭に特別開帳されるらしい。
また、金王丸が所持していた「毒蛇長太刀」が社宝として保存されている。
大鳥居 |
社頭 |
鳥居 | 神門 |
境内 |
御嶽社 | 玉造稲荷社 |
社殿 |
本殿屋根 | 拝殿 |
渋谷城の砦の石 | 金王丸御影堂 |
金王八幡宮
−由緒書きより抜粋− 金王八幡宮略記 御祭神 応神天皇(品陀和氣命)、八幡大神は「文武の神」「平和の神」「母子の神」「子授、安産、子育の神」として古くから信仰されていますが、当社はこの外福徳開運、厄除、良縁の神特に渡航交通安全の神として、御神徳の高い神と崇められております。 例大祭 九月十四日・十五日 御由緒 当社は第七三代堀河天皇の寛治六年正月十五日(紀元一七五二・西暦一〇九二年)渋谷氏の祖河崎土佐守基家の創始と言う。高望王の後、秩父別富武基は源頼信の平忠追討に大功を立て軍用の八旗を賜はり、内日月二旗を秩父妙見山に八幡宮として鎮祭す。武基の子武綱は嫡子重家と共に義家の軍に従ひ奥州金沢の柵を攻略せる功により、名を河崎土佐守基家と賜はり武蔵谷盛の庄を与えられた。これ即ち月旗の加護なりと、義家・基家と共に親しくこの地に来り月旗を奉じて八幡宮を勧請すと。重家の時始めて渋谷の姓を賜はる。渋谷氏は八幡宮を中心に館を構築して居城とし代代氏族の鎮守を崇めた。 社は元渋谷八幡宮と稱したが、金王丸の名声の因み、後に金王八幡宮と稱せらるに至った。これが渋谷の地名の起りとも言はれ渋谷城の当時の砦の石も現存しております。 渋谷氏は所請谷盛7郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ッ木、今井等)を領有しておりましたので、八幡通(旧鎌倉街道)青山通、宮益、道玄坂道、(旧厚木、大山街道)を中心とする、渋谷、青山の 鎮守として崇められて来ました。 −『平成祭データ』− |