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茂侶神社
もろじんじゃ
千葉県松戸市小金原5−28
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式内社 下總國葛餝郡 茂呂神社 |
千葉県松戸市にある。
新京成電鉄常盤平駅の北2Kmほどの小金原に鎮座。
各種資料には、鎮座地が栗ヶ沢となっているが、
地図で確認すると、隣町の小金原のようだ。
境内入口は南側。100mほどの参道が北に伸び、
参道脇には老木が聳えている。
入口の石垣横には、「高木村社」と刻まれた石碑。
かつては、このあたりは高木村と呼ばれていたのだろうか。
境内は、清潔で広く落ち着いた雰囲気。
拝殿の後方にある流造の本殿は、比較的新しい木の色。
休日の朝の参拝。朝日を側面に受けていた。
創祀に関する資料は、未入手。
式内社・茂呂神社の論社の一つである古社。
茂呂神社の「茂呂」は、御諸(みもろ)の「もろ」という説や、
神の坐します「モリ」の転訛とする説がある。
大和三輪の大神神社を勧請したもの。
茂侶神について、
『三代実録』に、貞観十三年(871)従五位上を授与されたとあり、
元慶三年(879)正五位上を授けられたともある。
当社は、水戸光圀によって
茂侶神社である可能性を指摘されたようだが、詳細は不明。
本殿の右手に4つの境内社。
左から、粟嶋大神、松尾大神、疱瘡大神、稲荷大神。
拝殿前の防火用の水槽に、三つ巴の紋。
本殿屋根にも同じ紋が付けられていた。
防火の験とも思えるが、一応、神紋と考えておく。
境内入口 | 参道 |
参道鳥居 | 参道 | 境内から参道 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
境内社 | 力石? |
茂侶神社
仰々當神社は今から凡そ壹千年前古代平安時代の中期に完成した延喜式神名帳(927)
によれば下總国葛飾郡内二社中の一社で正五位の格式社であり祭神は大物主命である
中世室町時代寛正二年(一四六一)二月にはこの地に本拠を置いた戦国大名高城下野守胤
吉が當社の本殿及び拝殿を再建し當地方の鎮守とし武運長久の祈願社としていた近世
江戸時代の初期に至り小金西新田(現小金原二・三・六・七町目の一部分)に在った水戸家所領
八拾参万平方米(約八拾参町歩)に黄門義公お鷹場の役所を設け領地の南北に表裏二門を
建て放鷹を行っていたが偶々當社が正五位の格式社であることを知り寛文四年(一六六
四)四月家臣板野伊藤の両名を遣し本殿拝殿の修復を行い義公自ら茂侶社と書した扁額
を献じ水戸家より代々祭典料を営繕料が給せられたまた現在の社名額は明治拾六癸未
年二月七日明治大帝の御弟君有栖川宮一品幟仁親王の御親筆でありこの年代には社格
が高木村々社となり爾来大祭(十月十七日)の祭典は村費により賄われ祭禮は全村挙げて
の盛儀となり司祭の神官は代々友野氏が担当していたその頃の神域参道百米に及ぶ両
側には樹齢参百年以上の老樹鬱蒼と生い茂り昼なお暗く特に本殿裏境内には七・八百年
を超す老杉数拾本が天を摩して聳え参詣者をして自ずと襟を正さしめる神威を四方に
光放っていた然るに昭和参拾八年日本住宅公団の小金原団地造成事業の施行により
境内は縮小され老樹も多く枯損し現存の老木は椎六本と参道入口に樹齢凡そ五百年の
老松を残すのみとなり神域の景観は昔日の森厳さを失うに至ったよって茲に会員一同
相い議し神域を整備して御神域の益々の隆盛ならむことを祈念し奉り併せて社史を後世
に伝へるため碑に刻して永く御神徳の弥栄を希うものである−社頭石碑− |
【 茂侶神社 (松戸市) 】