[HOME] > [神社記憶] > [関東地方] > |
|
烏森神社
からすもりじんじゃ
東京都港区新橋2−15−5
くろやきに なるべき烏森なれど やけぬは神のいとく成りけり
|
|||
旧村社 |
東京都港区にある。
新橋駅前の路地の奥に鎮座。
参道入口は烏森通りにあり、参道に特徴的な鳥居が立っている。
参道を進むと境内があるが、鳥居の前、右手に当社の授与所。
境内入口の鳥居は、当社独自の構造で、名前はわからない。
どうやら社殿の形を模したもののようだが、その社殿も独得な形状。
ただし、江戸名所図会に記されている社殿や鳥居は一般的なものだ。
鳥居をくぐると狭い境内だが、社殿はビル。
階段を上った二階部分が拝殿となっている。
境内の隅に「きやり塚」と力石がある。
また社殿の一階部分右手に「心願色みくじ」に願いを書いて結ぶ場所がある。
四色の色によって願い事が違うらしい。
赤は恋愛・良縁の願い
黄は金運・幸福・商売繁盛の願い
青は厄年・厄除・仕事・学業の願い
緑は健康・家庭・交通と旅行安全
烏森稲荷とも称された神社。
「烏森」の名は、昔、この地が江戸湾の砂浜で、
「枯州」とも「空州」とも呼ばれていたとか、
砂浜の松林に、烏が多く集まって巣が多かったからとか。
社伝によると、
天慶三年(940)平将門が乱を起こした時、
鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に
戦勝を祈願したところ白狐がやってきて白羽の矢を与えた。
その矢を持ってすみやかに乱を治めることができたので、
秀郷が一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐あらわれて、
神烏の群がるところが霊地だと告げたので、この地に祀られたという。
一説には、秀郷が当社に戦勝を祈願したとも。
江戸時代になって、明暦の大火(振袖火事)で多くの家屋敷が焼失したが
当社は類焼をまぬがれたため、屋敷神として尊崇され
「祠曹雑識」によれば、百余の稲荷番付の中で
烏森稲荷は東の関脇に位置付けられているという。
くろやきに なるべき烏森なれど やけぬは神のいとく成りけり
明治六年、日比谷稲荷神社との混同を避けるため、
烏森稲荷社の社名を烏森神社と改めた。
当社の神紋は三巴紋だが、
烏森稲荷の名から、烏・森・稲を図案化した紋。
森の上で烏が稲を咥えた紋も社紋として使用している。
参道入口 | 鳥居と境内入口 |
境内社殿 |
本殿横から | 境内隅、きやり塚 |
社殿一階横に心願色みくじ | 願いによって色が違う |
社殿から鳥居 |
烏森神社縁起 御祭神倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)天鈿女命(アメノウズメノミコト)に瓊々杵尊(ニニギノミコト) 平安時代の天慶三年(940年)に東国で平将門が乱を起こした時、むかで退治の説話で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ白狐がやってきて白羽の矢を与えた。その矢を持ってすみやかに東夷を治めることができたので、秀郷は御礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐あらわれて、神烏の群がるところが霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のごとく烏が森に群がっていたので、そこに社頭を造営した。それが烏森稲荷の起こりである。神勅を朝日に告げる烏森その後、秀郷の八代目の子孫にあたる下川辺行平も、当社に祈願して弓道の奥儀を究め、お礼として社殿を修理しまた、わにぐちを奉納した。その表には、「元暦元(1184年)甲辰正月吉日、下川辺庄司行平建立」と書かれてある。室町時代の亨徳四年(1455年)には、室町幕府の関東菅領で古河公方(こがくぼう)と言われた足利成氏が戦勝を祈願しており、その請願書(港区指定文化財)と奉納された宗近の剣は今も当社に宝物として蔵されている。当社が隆昌に赴いたのは、徳川家康が江戸に幕府を開いてからである。当地は早くから御府内に編入され、武家屋敷と町屋が設けられたため、一時は参拝もままならぬ状態であったがたまたま明暦三年(1657年)に有名な大火(振袖火事)が起こった。このとき江戸中はもちろん、当社の周辺も大方焼けてしまった。ところが烏森稲荷社だけは、不思議にも類焼を免れたのである。これは神威の致すところと考えられ、以後当社に対する屋敷神としての信仰は日に日に厚くなっていった。江戸の地誌にも芝愛宕下久保町の烏森稲荷としてしばしば登場している。「祠曹雑識」(しそうざっしき)によれば、百余の稲荷番付の中で烏森稲荷は東の関脇に位置付けられている。 くろやきになるべき烏森なれどやけぬは神のいとく成りけり やがてこのことが四代将軍家綱の耳に達し、その翌年(万治元年)には社地二百五十坪を当社に寄進して神徳に報いた。六代将軍家宣も引き続き当社を信仰し、宝永六年(1709年)には、立願成就の御礼として御戸張の寄進があった。さらにその翌年からは毎月将軍家繁栄の御祈祷祓献上の例も開かれ、併せて御子息の無病息災の御祈願を命ぜられた。 明治六年に日比谷稲荷神社との混同を避けるため、これまでの烏森稲荷社の社名を烏森神社と改め、新橋烏森の守り神として、多くの人々の信仰を得ている。昭和四十六年十二月には御社殿を造営、五十二年には社務所をそれぞれ建築し、現在に至っている。 −『平成祭データ』− |
加門七海の著書『将門は神になれたか』(文庫版は『平将門魔方陣』)には、
当社などの江戸における平将門ゆかりの神社が、
一種の魔方陣として配置されているのでは、と記されており興味深い。
雑記帳『平将門魔方陣 「将門は神になれたか」』参照。
それによると、当社は北斗七星のライン上には配置されていないが、
山手線東部に配置された将門頭部と西部の胴を分断する
将門調伏の稲荷ラインと考えると面白い。地図にプロットしてみると、
調伏ラインが中央線とクロスしているように見えないか。