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神明宮
しんめいぐう
群馬県藤岡市中栗須615  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

旧郷社

御祭神
大日孁命 配祀 建御名方神

群馬県藤岡市にある。
八高線・群馬藤岡駅の北西2Kmほどの中栗須に鎮座。
上越自動車道・藤岡I.C.の南800mほど、
23号線に沿うように南北に長い境内がある。

境内入口は南向き。
入口左手に「郷社神明宮」と刻まれた社号標が立っており
その後ろには「猿田彦大神」と刻まれた石碑。
神明造の鳥居をくぐり参道を進むと左手に公民館。
参道途中にも鳥居があるが扁額には「諏訪大明神」と記されており、
建御名方神が配祀されているようだ。

参道を進むと境内入口にも神明造の鳥居。
鳥居をくぐると広い境内があり、境内の奥(北側)に社殿がある。

参拝は、十月の早朝、日の出前。
当社に到着したのは、そのずっと前で真っ暗だった。
参道脇の駐車スペースに車を止めて、明るくなるまでしばらく待って参拝。
境内の木々は紅葉し、地面には枯れ葉が散っていた。

拝殿は瓦葺入母屋造。拝殿の左手には同じような形式の神楽殿。
拝殿の後方には垣に囲まれて神明造の本殿がある。
拝殿の前に、緑色のネットが張られている。
当初は鳥除けなのかと思ったが、鳥を除けるには不十分。
あるいは、境内で球技などの遊びが行われるための玉除けなのかもしれない。

境内には多くの石祠が祀られているが詳細はわからない。
奥には塚のようなものや立石などもあるが詳細はわからない。

社伝によると、
後鳥羽天皇建久三年、源頼朝が発願し、
佐々木成綱に命じて伊勢神宮を勧請し創建された古社。

後の北条滝川の戦で兵火にかかり焼失したが
正親天皇天正十八年、七ヶ郷
(中栗須・上栗須・ 下栗須・岡之郷・立石・森・中)の
氏子により再建された。

明治維新後、本殿・拝殿を改築し、
七ヶ郷に上戸塚・下戸塚の氏子を加えた九ヶ郷の郷社となった。

多くの石祠があるが、『全国神社名鑑』には末社十五社とあり、
『明治神社誌料』には、
国造社、高木神社、造化神社、六神社、風宮、雨神社、
産泰神社、榛名神社、疱瘡神社、八坂神社、八幡宮、蠶神社、
稲荷神社、阿夫利神社、武尊社、石神社、荒御前神社、奥玉神社、
東屋神社の十九社の名が記されている。

当社の神紋は『全国神社名鑑』には三つ巴紋とあり、
手水鉢にも三つ巴が刻まれていた。


社頭

参道の鳥居には諏訪大明神

境内入口

境内

神楽殿

御神木

拝殿

本殿

多くの石祠

塚のようなもの

社殿後方から

境内の石

石祠

神明宮由緒
祭神 大日孁命 (天照大神)
本宮は建久三年九月十七日(一一九二年)右大将源 頼朝公の発願により碓氷郡磯部領主佐々木三郎 成綱が命を受けて勧請し創建された
天正十年(一五八二年)小田原の北条氏と厩橋の滝川 一益との神流川合戦に於て兵火にかかり社頭が炎上した
その後三年を経て天正十三年七ヶ郷(中栗須・上栗須・ 下栗須・岡之郷・立石・森・中)の氏子達の力により社殿が 再建された
明治四年(一八七一年)第十五大区の郷社とされる
明治十三年九ヶ郷(中栗須・上栗須・下栗須・岡之郷・立石・ 森・中・上戸塚・下戸塚)の氏子により広く寄付金が募 られ拝殿が建築された
昭和二十九年瓦葺に修復され現在に至る
祭事春季例祭四月七日太々神楽奉納
秋季例祭十月十七日獅子舞奉納

−拝殿由緒書−



【 神明宮 (藤岡市中栗須) 】

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