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前橋東照宮
まえばしとうしょうぐう
群馬県前橋市大手町3−13−19
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群馬県前橋市にある。
前橋駅の北西2Kmほどの大手町に鎮座。
利根川の東側にある前橋公園の横。大手町交差点の角に境内がある。
境内入口は東側だが、駐車場入口は北側にあるので
車を停めて一度境内を出て、東側から入り直して参拝。
参拝は11月後半の早朝6時過ぎ。
11月は七五三などで参拝客が多いので街中の大きな神社へは
だいたいそんな時間に参拝することが多い。
よって、残念ながら御朱印はいただいていないのだ。
石の神明鳥居の脇に「縣社 東照宮」と刻まれた社号標。
当社は通称を権現様、正式名は東照宮だけど、
他の東照宮と区別して、当サイトでは前橋東照宮と記しておく。
鳥居をくぐると左手に手水舎。右手に車祓所。
参道を進むと左手に社務所があり、正面に社殿がある。
社殿の前に掲げられた御神燈の提灯に赤い葵紋が描かれていた。
早朝の参拝で、空は明るくなっていたけど、境内はまだ暗く、
御神燈のオレンジの光と褐色の社殿が美しい。
拝殿は瓦葺入母屋造平入。
後方に垣に囲まれた本殿は銅板葺のようだがよくわからなかった。
垣の前方には唐破風付きの中門がある。
徳川家康の次男・結城秀康の四男で、前田藩主の祖である直基が
松平姓を賜り、越前勝山城主に任ぜられた寛永元年六月六日、
祖父である家康公の遺徳を敬慕して、同地に創祀。
その後、松平家は二百四十余年間に十三回の移封にあい、
その都度、各地に奉遷したという。
寛延二年(1749)松平朝矩の時に前橋藩への移封されたが
その後、武蔵川越藩へ移り、慶応二年(1866)、
松平直克の時に、再び川越藩から前橋藩へ戻り、
当社も明治四年現在地に遷座。昭和四年県社に列せられた。
配祀の菅原道眞は慶長六年、
酒井重忠が厩橋城に入城した時、城の戌亥の方、天神山に
荒廃していた天満宮を霊夢により修復。
酒井氏移封の後、養行寺の所管となっていたものを明治四年に合祀したもの。
また長壁神社は古くは姫道刑部大神と称し、姫路城内に祀られていたが、
松平朝矩が姫路藩から前橋藩へ移封となった時、
前橋城の未申の方、霞掘の湖畔に奉遷。
明治三十一年一月二十一日に官令により合祀したもの。
『平成祭データ』には、長壁神社の元社は「播磨の国の式内社」とあるが、
そのような式内社は存在せず、「播磨国神名帳所載の社」の間違いだと思う。
あるいは長壁社を式内社のいずれかに比定する説があるのかもしれないが、
寡聞にして、僕は知りません。
境内の奥、西側に境内社が二つ。
一つは厩橋護国神社だが、もう一つの社名は確認していない。
『平成祭データ』には境内社に稲荷社(倉稲魂命)とあるので稲荷社だろう。
その社の脇に、変わった形の石と像が置かれていた。
女陰にもヘソにもアンパンにも見えて面白い。
社頭 |
東側鳥居 | 社殿 |
御神燈の神紋。まだ暗い | 拝殿 |
中門 | 本殿 |
境内 |
厩橋護国神社 | 稲荷社か? |
変な石と小さな像 |
東照宮
東照宮の創立は、結城秀康の四男の直基が松平姓を賜り越前勝山城主に任ぜられた寛永元年六月六日に祖父である家康公の遺徳を敬慕して祭祀したのに始まる。
以来、松平氏は幕府の命令により寛永元年越前勝山(三万石)より、寛永十年越前大野(五万石)、正保元年出羽山形(十万石)、慶安元年播州姫路(十五万石)、慶安二年越後村上(十五万石)、寛文七年再び播州姫路(十五万石)、天和二年豊後日田(七万石)、貞享三年再び出羽山形(十万石)、元録五年奥州白河(十五万石)、寛保元年三たび播州姫路(十五万石)、寛延二年上州前橋(十五万石)、明和五年武州川越(十五万石)、慶応元年再び上州前橋(十七万石)、へと二百四十余年間に実に十三回にも及ぶ移封に遭ったが、そのたびごとに東照宮を城地に奉遷して藩主はもとより藩士、領民に到るまで崇敬の誠を捧げた。
即ち、享保二十年には藩主より社領として二百石が寄進され、社殿の造営は婁、移遷のこともあって、慶安元年、寛文七年、元録五年、同十年、宝暦四年、安永六年、嘉永八年の七回をかぞえ、現在の社殿は嘉永八年に武州川越において樹齢千年を越える一本の欅の巨木によって建造されたものと伝えられ、その用材は実に見事であり、本殿の彫刻は江戸の有名な彫師島村源蔵の作として知られている。
明治以降は、旧前橋藩士居住区域七ケ町三千戸の鎮守として崇敬をあつめてきたが、昭和四年四月に県社に列せられた。
配祀の天満宮は慶長六年、酒井重忠(慶長年間の厩橋城主)が厩橋城に入城したとき、城の戌亥の方、天神山に荒廃していたものを霊夢により修復して祭祀したのに始まり、その後酒井家の興隆著しかったので俗に酒井の開運天神と称され、酒井氏累代の崇敬が極めて厚く、酒井氏移封の後は養行寺の所管となっていたものを明治四年四月二十三日に合祀したものである。
長壁神社は古くは姫道刑部大神と称し、播磨の国の式内社であったものを寛延二年、松平朝矩(松平家五代の藩主)が姫路城内より奉遷して前橋城の未申の方、霞掘の湖畔に祭祀していたが、明治三十一年一月二十一日に官令により合祀したものである。
−『平成祭データ』− |