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礒部稲村神社
いそべいなむらじんじゃ
茨城県桜川市磯部字稲置779
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式内社 常陸國久慈郡 稻村神社 |
茨城県桜川市にある。
JR水戸線・羽黒駅の北1Kmほどの磯部に鎮座。
50号線から北へ入った場所にあるのだが、
言葉では道が説明できないのだが、
当社への参道脇、昔は馬場であったと思われる場所が
「桜川のサクラ」で有名な桜川公園となっている。
その桜川公園から北東へ道を進むと、突き当りに境内がある。
数段の階段を上ると、社殿のある境内だが、
境内入口に「城館跡 磯部館跡」という案内があった。
城には詳しくないのだが、位置的にはそんな感じの場所。
鳥居をくぐり境内に入り、案内板を眺めていると
謡曲「桜川」のモデルとなった場所らしい。
謡曲にも詳しくないのだが、
その謡曲「桜川」に登場する磯部寺のモデルとなった神宮寺の跡が境内にある。
明治の神仏分離によって廃寺となったようで、
それほど有名だった(と思う)寺を廃するほどの、
当時の狂気を、心に思い描きつつの参拝。
鳥居正面に拝殿があり、
その後方、垣の中に流造の本殿が鎮座。
垣の外、右手に摂社・鹿島社があり、
垣の外、左手には「要石」が祀られている。
「要石」の案内では、
鹿島神宮の要石が凹で、当社の要石が凸と一対であり
鹿島神宮が大鯰の頭を、当社が尾を押さえているという。
昔、深さを調べようと三日三晩掘り下げたが底が出なかったという。
個人的には、鹿島神宮と対をなすのは香取神宮であり、
香取神宮の要石も凸なんだけどなぁ、などと考えていた。
『茨城県神社誌』によると
日本武尊東征のおり、常陸に入り、桜川に臨み、
皇大神宮を遥拝して斎祀し、磯部大明神と称したという。
『式内社調査報告』によると
式内社・稲村神社の論社の一つ。
ただし、式内社・稲村神社は久慈郡の式内社で、
当地は律令時代、新治郡に属しており、
明らかに遠く隔たっているようだ。
境内の案内板によると当社には多くの摂社があるようだが
すべてが境内に有るわけではない。
帰宅後に地図を眺めていた、当社のすぐ近く、
西側に重要そうな咳嗽社があることを発見。
残念ながら参拝はしていない。
境内にも、鹿島社の他に幾つかの小祠がある。
確認したものは以下のとおり。
境内左手から、足魂(あしたま)神社(饒速日神・玉御祖神)、
蠶養(こがい)神社(稚産霊・保食大神)、
多賀神社(伊弉諾尊・伊弉冊尊)、天神社(菅原道真公)、
末社・伊勢神宮内宮摂社二十四社五十五座之大神、
稲荷社、八雲神社(素盞嗚命)。
参拝後、せっかくなので桜川公園を散策。
参拝は十月なので、葉桜ですら無いのだが、
想像力で、満開の桜を補って。
公園内にお堂が一つある。
このお堂は、当社鳥居左前にあった薬師堂だろうか。
神宮寺と同時期に、神仏分離のため公園内に移築されたようだが。
社頭 | 鳥居 |
境内 | 社殿 |
境内 |
社殿 | 本殿 |
摂社・鹿島社 | 神宮寺跡 |
要石 | 要石 |
桜川公園 |
公園 | 移築された薬師堂 |
櫻川 磯部稲荷神社
−社頭案内板より− 桜川磯部稲荷神社
謡曲「桜川」と天然記念物「桜川の桜」
永享十年(一四三八)磯部稲村神社神主磯部祐行、関東管領足利
持氏に花見噺「桜児物語」一巻を献上、この物語をもとに将
軍足利義教が、世阿弥元清に謡曲を作らせたのが起こり
とされています。桜川磯部稲村神社境内を始め桜の馬
場(磯部桜川公園)桜川流域は、平安時代から西の「吉野」
に東の「桜川」と言われる程東国一の桜の名所であり、
桜樹は東北産の品種に属する白山桜にして、花色は淡紅
を帯びるもの、花梗に毛のあるもの、花に芳香のあるもの、
多くは其特徴とするところにして他に多く類例を見ず、常
に桜の名勝としてのみならず学術上に於いても貴重なりと
して、大正十三年十二月九日国の天然記念物として十一種
類が指定、次いで昭和四十九年七月十六日磯部地内桜樹
全樹が指定される。また、古くから紀貫之を始め多くの文豪詩家名士がこの地 を訪れ多くの歌や句が詠まれている。 −境内案内板より− 磯部稻村神社と謡曲「桜川」
人商人の手に渡った我が児を探し求めて
当地へ来た母が、磯部寺の僧の弟子となって
いた愛児と巡り会うというのが謡曲「桜川」の
物語で、桜川という花の名所を舞台に“桜”
とゆかりのものを並べた創作能になっていま
すが、磯部稻村神社には「桜川物語花見噺」
という古本があって、これをお家騒動にからむ
物語としており、最後に母が住んでいたとい
う屋敷跡・姥ケ塚が今に残っています。また言い伝えによりますと、桜川の桜は磯部 稻村神社の境内だといわれ、今も馬場には 桜の古木が多く、古来から桜の名所でした。 なお謡曲中の磯部寺は現在はありませんが 一説には神社境内にあった神宮寺がそれだと いう旧説があります。 −社殿前案内板より− |