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桐生天満宮
きりうてんまんぐう
群馬県桐生市天神町1−2−1
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旧県社 |
群馬県桐生市にある。
桐生駅の北東2Kmほどの天神町に鎮座。
66号線(本町通り)を北上すると、当社正面に到着する。
境内入口は南やや西向き。
大きな神明鳥居の一之鳥居が立っており、右手に「桐生天満宮」と刻まれた社号標。
資料によると、当社の正式名は「天満宮」らしいが、
桐生天満宮と通称されているようだ。
鳥居をくぐり参道を進むと、二之鳥居が立っており、御神木の大銀杏。
参道の右手に機神神社(栲機千千姫命)が祀られている。
上毛かるたにも「桐生は日本の機どころ」とあり、桐生は織物の盛んな土地。
関ケ原合戦の際、軍旗に用いる旗絹を当社の御神前に供えて戦勝祈願し、
その勝利凱旋を吉例として境内にて織物市が開設されて、
後の桐生織物繁栄の礎となったということで、その織物の神を祀ったのだろう。
さらに参道を進むと、石橋やからくり人形水車などがあり、境内左手に財福稲荷。
財福稲荷の脇に南蛮燈篭があり、境内社を合祀した宝船神社。
宝船神社には、大国主大神、事代主大神、大宮能売大神、天鳥船大神、
少彦名大神、須佐之男命、伊邪那岐命・伊邪那美命などが祀られている。
参道正面に神門があるが、神門の手前に芭蕉句碑と牛石。
昔、神様が怠け者の牛を綱でつないで反省させようとしたが、
怠け者の牛は反省せずに石になってしまったという。
「牛石やひかれ手綱に糸さくら」芭蕉句碑
神門をくぐると正面に社殿。社殿全体は拝殿幣殿本殿を連結した権現造だが、
拝殿自体は入母屋造。本殿(群馬県指定の重要文化財)は流麗な流造。
この社殿は安永七年(1778)に起工し、寛政五年(1793)に落成したもの。
当社は「岩の上の天神」とも称されるようで、本殿・幣殿は岩の上に建っているらしい。
本殿後方から見ると、垣の中に立て岩らしきものが見えたが、その岩の一部だろうか。
参拝は十一月の中旬。
社殿では七五三か初宮詣の祈祷が行われていたようだった。
当社は関東五大天神の一社。(残り四社はどこだ?)
社伝によると景行天皇の御代、上毛野君御諸別王が当国の国造となり、
土師部の氏人に、天穂日命を当郡磯部の岡に奉斎させ、磯部明神と称したという。
上野国神名帳にも「山田郡従四位上礒部明神」とある古社。
文治三年(1187)桐生家の祖藤原綱元が当地を領し、
綱元の末孫・国綱の時に桐生に遷座。
観応年間(1350頃)、桐生家に縁の北野天満宮より
菅原道真公の神霊を勧請合祀し桐生天満宮と改称。
天正の頃、桐生が徳川家康公の支配地となって桐生の町づくりが開始され、
天正十九年(1591)桐生川畔の久方村梅原にあった当社は赤城の森に遷座。
荒戸新町の起点となり、桐生領五十四カ村の総鎮守と定められ、
歴代徳川家の祈願所であったという。
昭和三年県社に列した。
本殿の周囲にも石祠などの境内社が並び、
本殿後方には桐生市指定重要文化財の春日社の祠。
同規模のものが二つ並んでおり、右手が春日社のようだが、左は何だろう。確認し忘れてしまった。
さらに境内右手には、直日神社・神明宮が祀られている。
天満宮なので、当社の神紋は梅鉢紋。
拝殿前の賽銭箱には星梅鉢の紋が付けられていた。
境内 |
参道鳥居 | 御神木の大銀杏 |
石橋 | 機神神社 |
財福稲荷 | 南蛮燈篭 |
宝船神社 | 手水舎 |
からくり人形水車 | 牛像 |
芭蕉句碑と牛石 |
神門 | 神楽殿 |
境内社殿 |
拝殿 | 本殿 |
本殿後方の石 | 石祠群 |
春日社(右) | 直日社・神明宮 |