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近戸神社
ちかとじんじゃ
群馬県前橋市粕川町月田1261
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旧村社 |
群馬県前橋市にある。
上毛鉄道・膳駅の北1.5Kmほどの月田に鎮座。
膳駅から北上すると、吉池の手前に当社境内がある。
道路に沿って参道があり、鳥居が立っており、
鳥居扁額には「正一位近戸大明神」とある。
その鳥居をくるぐと当社の社域があり、
階段上に境内入口の鳥居。階段脇に「村社近戸神社」と刻まれた社号標。
参拝は晩秋の十一月。
境内はひっそりとして、季節のせいか乾燥して枯れた印象だった。
境内奥に、当社の社殿。拝殿は瓦葺入母屋造平入で、
後方の本殿は覆屋根の下にあり、流造のようだ。
拝殿の扁額に「近戸神社」とあるが、さらに左に「蠶影山大神」という扁額もある。
境内右手には「獅子連顕彰碑」。
当社の神事で奉納される獅子舞を記念したもののようで、
表面に獅子舞を舞う姿がレリーフ状に刻まれている。
創祀年代は不詳。境内の由緒書きによると、
東国を鎮定した豊城入彦命の媛宮が字丸山に勧請した社を、
延暦十三年(794)に現在地に移築したもらしい。
『平成祭データ』によると、
当社は『上野国神名帳』に「正五位上霜川明神」とある社。
近戸神社は、赤城山との関係が深く、
赤城山南麓の深津・笂井・上増田・大島町に点在し、
今井の今井神社、大胡町河原浜の大胡神社も近戸大明神と呼ばれていた。
「近戸」という言葉は、登山口あるいは里宮という意味で用いられているのだろう。
三夜沢の赤城神社は、粕川信仰の西社と地蔵信仰の東社とがあり、
現在は、東社に統一されているが、その西社の元宮の地と考えられる「御殿」が
当社が鎮座する粕川の上流にある。
また『式内社調査報告』には、二宮赤城神社の御神幸には当社を中継していたとある。
境内の案内書きによると、
当社では、赤城山信仰の表徴として数百年の伝統を持つ神事「お川降り」があり、
粕川へ濁酒を流し、近戸神社外宮(別宮)まで渡御される神輿は
製作年代不詳、安政三年に修理されたもので前橋市指定文化財。
奉納される獅子舞は群馬県指定重要民俗文化財。
ということで、当社には外宮、あるいは別宮と呼ばれるお宮があるようだ。
粕川対岸の石垣の上にあるようだが、残念ながら確認していない。
社殿の屋根などに三つ巴紋が付けられており、
「獅子連顕彰碑」で舞う獅子の胸にも三つ巴紋がある。
これが当社の神紋かどうかは確認していないが、
とりあえず三つ巴紋として掲載しておく。
境内の左手に「石造六地蔵殿」がある。
正面と両側面に二体ずつ、合計六体の地蔵が刻まれたお堂形式の石塔で、
暦応五年(1341)二月十五日、幽阿弥陀佛の建立らしい。
参道の鳥居 | 鳥居扁額 |
社頭 |
鳥居と社号標 | 手水舎 |
境内 |
拝殿 | 獅子連顕彰碑 |
扁額「蠶影山大神」 | 扁額「近戸神社」 |
拝殿 | 本殿 |
古い狛犬 | 多くの石祠 |
石造六地蔵殿 |
石造六地蔵殿 | 赤城塔 |
−境内由緒書− 近戸神社 由緒記
赤城山の中腹に御殿と称する処あり。古老の伝えるには往古豊城入彦命東国を鎮定し永く居住し給いし所なるが故に今なお御殿と名付くと言う。命のこの地に居住せられるや毎年七月一日を以て天地の神事を奉斎し祭事の終わりに濁酒を川に流し祭事終了の合図とせり。 命の長女某姫宮月田字丸山に邸宅を作り住せしが同日この地にても又祭事を営み然る後川流に至り酒粕の流れ来るを見祭事の終了せし、を知ることを常例とせし、依て此川を名付けて粕川という。現今粕川村の中央縦貫するもの即ち此川なり。 近戸神社は赤城神社と同一祭神にして某姫宮創祀せる社、なるべく又近戸と称するは赤城神社に近きが故なるべし。 以上の故事によりて近戸神社の例祭には必ず神輿をかつぎ神職氏子信徒数百人供奉して粕川の対岸字大光寺に渡御し神酒を川に流すを例とす。但し対岸に方一間高さ四尺計りの石垣の上に近戸神社の石のほこらあり。神輿を此処に安置し、神事を執行し、且神前にて獅子舞一庭を舞いし、神酒を供奉者に饗し再び神輿に供奉して帰り来る。此神事を御川降りと称す。 因に上野国神明帳に所載の正五位上霜川明神と称するもの即ち当地の近戸神社なり。 前記御殿の近辺に元三夜沢と称する処あり。赤城神社は往古此処にありたるを後現地西宮として移築せしなりと伝えられるが霜川とせしは下川の意にて元三夜沢の辺りより流れ来る粕川の下流に在るが故に名付けたるものなるべし。 近戸神社は往古字丸山にありしを延暦十三年、皇居を山城の国に定められし時現地に移築せしなりという。 −『平成祭データ』− |