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御田八幡神社
みたはちまんじんじゃ
東京都港区三田3−7−16
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東京都港区にある。
JR田町駅、地下鉄三田駅の東500mほどの三田に鎮座。
15号線(第一京浜)に面して、南東向きに境内入口がある。
歩道から少し入ると鳥居が建っており、
鳥居の右手に「御田八幡神社」と刻まれた社号標が立っている。
鳥居をくぐり参道を進むと、十数段の階段があり、
階段を上ると、社殿のある境内。
正面に入母屋造銅板葺きのどっしりとした拝殿があり、
拝殿の後方に流造の本殿がある。
拝殿の額には「御田八幡宮」となっていた。
社殿の右手に社務所があり、境内の左手に神楽殿や境内社。
二棟を連結したような、朱の美しい社殿は五光稲荷神社と御嶽神社。
本殿の横には、多くの狛狐を持つ石祠(稲荷社)がある。
参拝は、東日本大震災の前日の午後。
社伝によると、和銅二年(709)八月の創祀。
牟佐志国枚岡(白金三田)に東国鎮護の神として鎮座。
古くは薭田神社と称し、式内社・薭田神社に比定される古社。
あるいは、寛弘年中(1004〜1012)の創祀、
あるいは、寛仁年中(1017〜1021)の創祀という説もある。
寛弘八年(1011)、武蔵国御田郷久保三田の地に遷座され
頼光四天王の筆頭、嵯峨源氏・渡辺綱の氏神として崇敬され、
俗に「綱八幡」とも称された。
江戸時代になって、元和五年(1619)僧快尊が卜して
現在地に社殿造営を開始し、寛永五年(1628)八月に遷座。
御田八幡宮、三田八幡、箕田八幡宮などと称したのを
明治二年九月(あるいは慶応元年)、薭田神社と改称。
明治七年一月三田八幡神社と改め、郷社に列格。
明治三十年四月三日、三田の冠称を御田の古称に復したという。
昭和二十年五月、東京大空襲によって炎上し、
昭和二十九年に再建された。
拝殿前の賽銭箱や、境内の幟などに三つ巴の紋。
八幡の一般的な神紋だ。
境内入口 | 参道 |
境内 |
拝殿 | 神楽殿 |
五光稲荷神社と御嶽神社 |
稲荷社と本殿 |
御田八幡神社御由緒略誌 古くは稗田神社(延喜式所載)御田八幡宮、三田八幡、箕田八幡宮等称したのを慶応元年六月稗田神社と神祗官より改称され、さらに明治五年には社号を三田八幡神社と改め郷社に列格された。明治三十年に三田の冠称を御田の古称に復したのである。 祭神天之児屋根命、誉田別尊(応神天皇)、武内宿禰命、創立和同二年八月 初め東国鎮護の神として牟佐志国牧岡の地に祀られ(白銀三田)後に一条天皇寛弘二年武蔵国御田郷、即ち後の麻布領窪三田の地に遷座した(三田一丁目)その後徳川氏入国に際し奇瑞があったところから、応長十二年現鎮座地たる荏原郡上高輪村海岸を開拓して造営の工を起した。そして細川、井伊諸大名の奉仕によって社殿その他建物等も竣工が完うし寛文二年八月に正遷宮が行なわれた。しかるに行年も経ぬ寛文八年二月に江戸大火のため社殿炎上の厄に遇いことごとく烏有になった。しばらく仮殿は伊皿子坂薬師寺に置かれたこのとき篤信の細川綱利公は摂津四天王寺住大工藤原家継に工事を監督させて寛文十二年八月に正遷宮を挙げた。爾来幾星霜諸人の崇敬するところである。先年戦災に炎上した社殿が当時の建築物であった。現社殿は氏子各位の協力によって昭和二十九年に復興したものである。 −『平成祭データ』− |