[HOME] > [神社記憶] > [関東地方] > |
|
前橋八幡宮
まえばしはちまんぐう
群馬県前橋市本町2−7−2
|
||
旧県社 |
群馬県前橋市にある。
前橋駅の北西1Kmほどの本町二丁目に鎮座。
西向きの境内は公園になっている。
石鳥居をくぐり参道を進むと左手に手水舎。
赤い灯籠が並ぶ参道を進み、階段を上るとコンクリートの社殿がある。
全体的に流造の構造の社殿だが、本殿が良くわからない。
ひょっとすろと、この社殿の中に安置されているのかもしれない。
市街地にある、初めて訪れる神社の場合は、
車で探すので、なるべく早朝、交通量の少ない時に参拝するが、
当社への参拝も11月後半の早朝、日の出前なのだ。
当社の正式名は「八幡宮」。ただ通称は前橋八幡宮と呼ばれており、
他の八幡宮と区別するため、当サイトでは前橋八幡宮としておく。
「前橋風土記」によると、貞観年間、在原業平の子孫である長野業重が、
京都の石清水八幡宮から勧請したという。
ただし、一説に「国府八幡宮」とも言われているようで、
創建は更に古いものとする考えもあるらしい。
正親町天皇の永禄十年、兵火に遭ったが直後に再建。
元亀・天正年間、北条氏などの武将が神田を寄進。
江戸時代には将軍家より十五石の朱印領が献じられたという。
藩主である酒井氏、松平氏の崇敬篤く、
前橋全市の総鎮守として尊崇された神社。
明治五年郷社に列格、翌年明治六年県社に昇格した。
社殿の右手に立派な銀杏の木と境内社の美保大國神社(大國主神 八重事代主命)。
『平成祭データ』には八坂神社の名も載っていたが、参拝時には気づかなかった。
コンクリートの社殿内にあるのだろうか。
また『明治神社誌料』には摂社に諏訪神社があり、境内社に以下の社名が列記されているが、
現在は本殿に合祀されているようだ。
琴平神社、三峯神社、安倍神社、菅原神社、四柱神社、
稲荷神社、大國神社、厳島神社、疱瘡神社。
社殿のある石垣の前に、「達磨御焚上発祥之地」と刻まれた石碑が立っている。
1月9日の初市、 通称「だるま市」で古い達磨供養が行われるらしい。
社頭 |
鳥居 | 参道 |
境内 |
社殿 | 扁額 |
社殿 |
社殿横から | 美保大國神社 |
大イチョウ |
手水舎 | 達磨御焚上発祥之地 |
八幡宮
「前橋風土記」(貞亨年間)に依りますと、在原業平の子孫・長野業重が、京都の石清水八幡宮から勧請したものと伝えられていますが、一説には「国府八幡宮」とも言われ、そうなると御創建は更に古いものとなります。戦国時代、越後から来た北条(きたじょう)高定・高広父子はこの土地を支配しますが、元亀二年(一五七一)、八幡宮に対して、土地寄進状・諸役免許状を出しますが、その文面に「当地厩橋八幡宮」とあって、これは「厩橋」と言う地名が明記されている最初の資料です。 のち、平岩親吉、酒井重忠、同 忠清などの代々の領主も、社領寄進の文書を捧げ、慶安二年の酒井忠清による土地安堵状には「上州郡馬郡前橋(ママ)」とあって、「前橋」の呼称は江戸初期に始まったことがわかります。 代々の、城主が篤く崇敬したので、庶民もこれを見習い、八幡宮は前橋の一中心をなしたと伝えられています。 江戸期を通じて、社領は天川原と代田村にあわせて十五石、天川原の社領あとには、現在も八幡神社が祀られています。 −『平成祭データ』− |