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佐波々地祇神社
さわわちぎじんじゃ
茨城県北茨城市華川町上小津田1233
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式内社 常陸國多珂郡 佐波波地祇(神)社 |
茨城県の北茨木市にある。
常磐線・磯原駅の北西6Kmほどの華川町上小津田に鎮座。
北西に進み、常磐自動車道を越えてさらに北西へ。
69号線から10号線に入ってさらに進み、
華川小学校の裏側(北側)の道に入ったところ、
山の麓に、南向き(やや西寄り)の鳥居が立っている。
参道を進み、鳥居をくぐって階段を上ると境内。
ちょうど社殿の側面に出る。
ということで、社殿は東向き(やや南寄り)。
社殿の前方に、狭い山道が続いており、
少し歩いて見たが、山に登って行く感じだったので
先に進まず引き返した。
ひょっとすると、日本武尊が鏡を納めたという
山上の鏡塚へ通じる道だったかもしれない。
拝殿は入母屋造。本殿は流造。
拝殿の扁額には「佐波神社」とあり
本殿の扁額には「佐波大明神」とあるが、
寛政八年四月の棟札には「佐波波地祇神社」とあり
当社の正式名は「佐波々地祇神社」。
佐波神社は通称ということだろうか。
参拝は六月。
深夜、長野県を出発し、朝の四時前に到着。
真っ暗だったし、ガソリンも少なくなっていたので
ガソリンを補給しようと、周囲のGSを探し回ったが
このあたりのGSは夜は開いておらず、
結局、高萩市の国道沿いのGSで給油。
急いで戻ってきたら、完全に明るくなっていた。
創祀年代は不詳。
三代実録に、貞観元年に従五位下を授けられた佐波波神とあり、
一説には、貞観十七年に記されている三枝祇神であるとも。
式内社・佐波波地祇神社の論社。
(延喜式写本によっては佐波波地祇社)
当初は、現社地の北西4Kmほどの佐波山の南嶺、
贄田(淨蓮寺渓谷の奥)神楯に祀られていたという。
そこに大きな沢があったので、澤山(佐波山)といい、
日本武尊東征の折、佐波神を拝し、
佐波山の妖蛇を斬り、塩原山山上に鏡を納めた(鏡塚)。
延暦二十年九月、坂上田村麻呂が佐波山に兵を休め、
戦勝を祈願し、翌年報賽のことがあった。
永承年五年(1052)八月、
源頼義が戦勝を祈願し、和歌を奉納。
永禄十二年(1569)八月二十日、
塩原山山上へ遷座、さらにその後、塩原山中腹の現社地へ遷座。
以前は、鳥居と同じく南を向いていたが、
昭和四十五年、本殿を下に移築して、拝殿の横に並べたらしい。
『式内社調査報告』には、海(東方)に向かせるためとあるが
あるいは、佐波山を背にするためじゃないかとも思う。
現在の祭神は天日方奇日方命。
一説には、相殿に大己貴命と事代主命を祀り
山上の鏡塚に猿田彦大神(相殿に天鈿女命・饒速日命)と
熊野大神を祀っているという。
また、天日方奇日方命は別名を阿多都久志尼命、
佐波夜遅奴美命ともいい、佐波の名を祭神名からとする説も。
ただし、『式内社調査報告』では、佐波夜遅奴美命は、
大国主神の後裔・速甕之多気佐波夜遅奴美神のことで
天日方奇日方命とは別神としている。
拝殿の横に、覆屋に入った境内社があるが名前は未確認。
その横に、浅間神社と刻まれた石碑。
本殿の横には幾つかの石祠が並んでいた。
また、社殿の横から上に続く小さな石段があり
登ってみると小さな祠が一つ。
たぶん、それが旧本殿の位置なのだろう。
『茨城県神社誌』には、境内社として以下の名が載っている。
熊野神社、八幡神社、鷺森神社、天満天神社、駒形神社、
子安神社、塞神社、春日神社、大国神社、八坂神社。
社頭 |
鳥居 | 参道 |
参道階段を上ると社殿側面 |
本殿 | 拝殿 |
境内 |
拝殿 | 石祠 |
浅間神社石碑 | 覆屋に入った境内社 |
社殿横に階段 | 階段上に小祠 |