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加蘇山神社
かそやまじんじゃ
栃木県鹿沼市上久我3440
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栃木県鹿沼市にある。
JR日光線・鹿沼駅から北西へ18Kmほどの上久我に鎮座。
293号線を西へ進み14号線から240号線に入って13.5Km。
荒井川に沿って石裂山(879m)を目指すと到着する。
神明鳥居の側に「加蘇山神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると正面に社務所を兼ねた石裂山荘があり、
境内右手に社殿や神楽殿があるが、ここは遥拝所。
本当の境内は、そこから石裂山方向へ数百メートル入った場所にある。
遥拝所社頭 |
遥拝所 | 神楽殿 |
舗装道路の突き当たりに駐車スペースがあり、数段の階段を上ると鳥居。
鳥居をくぐると大きな木が二本あり、
その間を通って参道階段が上まで続いている。
階段を上ると石の冠木門。
冠木門をくぐると正面に堂々とした社殿がある。
参拝はゴールデンウィークの早朝。
深い緑と巨木の境内は、深呼吸したくなるほど清々しいが、
社殿の陰から熊が出てきても不思議じゃないような雰囲気。
(本当に熊が出るかどうかは知らない)
物音に耳を澄ましながら参拝した。
境内横から石裂山への登山道があり、
社頭の案内板によると、御神木の千本桂まで25分。
中腹の中ノ宮まで45分。奥ノ宮まで1時間。
石裂山山頂まで2時間20分らしい。
行者の修行の山なので、ハシゴやクサリ場などがある険しい山だが
都会に近く、手頃な山として人気がある山のようで、
参拝を終え車に戻ると、女性二人の登山客が準備をしていた。
残念ながら、僕は一泊二日の栃木旅行で、
他にも行きたい場所があったので登らなかった。
石裂山は「おざくさん」と呼ばれ、尾鑿山とも書かれるようだ。
当社の創祀年代は不詳だが、
三代実録の元慶二年(878)九月十六日に
「下野国賀蘇山神、従五位下」と記されている古社。
社伝によると、神護景雲元年(767)、
日光開山で有名な勝道上人による開山。
当社は石裂山の西麓にあるが、南麓の入粟野に賀蘇山神社があり、
両社ともに、賀蘇山神であるらしい。
石裂山を中心とした信仰世界が形成されていたのだろう。
賀蘇山神社の由緒によると
石裂山山頂近くの剣ノ峰に、賀の岩と蘇の岩があるらしい。
賀の岩は五穀豊穣の岩、蘓の岩は医薬長寿の岩として祀られ
両岩から、賀蘇山の神という名になり、
このあたりを分岐点とする都賀郡、安蘓郡の名も神名に由来する。
永承年間、源頼義父子が奥州征討の祭に当社に戦勝祈願し
帰途に、鎧や大刀を納めたという。
ゆえに、兵馬の神として崇敬され遠近より登拝するものも多かった。
承禄年間、久我式部大輔常真が当地に築城し
社領を奪ったため、当社は、以後衰微したらしいが、
天正年間、久我氏滅亡により、再建された。
明治十年六月郷社に列せられ、大正四年三月六日県社に昇格。
参拝時に確認できなかったが、
当社の境内社には日留神社、日山神社という社があるらしい。
日山神社の祭神は「日読命」。
月読命からの連想というか、概念上の神なのかもしれないが、
日本には数社しか祀られていない神で、通常は月読命と対で祀られる神。
石裂山のそばに月山があり、
南麓の賀蘇山神社に月読命を祀る月山神社がある。
さらに、日光との関連もあるのかもしれない。
社頭 |
参道階段 | 境内 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
加蘇山神社 由緒沿革記 加蘇山神社は、鹿沼市上久我石裂山に鎮座あり、神護景雲元年(七六七)に勝道上人が開山したといわれている由緒ある古社で、磐裂命、根裂命、武甕槌男命の三柱の神を祀り、五穀守護武勇の神として知られている。 陽成天皇御代元慶二年(八七八)九月十六日、下野国加蘇山神に従五位下の位階を賜ると三代実録に記載してあるので、既にそれ以前より此所に鎮座せられていたことがわかる。 往古は、近郷の人々はすべて氏子であって、社田三百町歩を以て神饌供物の料となし五人の神官により常に奉仕されていたと伝う。降って永承年間(一○四六〜一○五三)に至り、源頼義父子奥州征討の際当社に参籠して、速かに賊徒の平定を祈願して戦に臨んだところ果して頼義大勝を得、大に神威の崇厳なるに感銘、帰途持する所の鎧及び大刀を納めて武運長久を祈りたりという。 是れにより兵馬の神として崇め遠近より登拝するものも多くなる。其後天文年間(一五三二〜一五五五)、当国皆川城内の城主皆川山城守広照も大いにこれを尊信して、社領及び神馬大刀等を納め、又社殿の修飾に努めたり。承禄年間に至り久我式部大輔常真当村に一城を築きて猛威を振い遂には社領をも掠奪せししかば境内は衰微の一途をたどることになった。 当地方は往古より此時迄が加蘇野郷と称してきたが久我氏の領有になり久我村と改めたという。又村内に大鳥居及山禅の社ありて祭礼場並に社号の額面を掛け置きし形跡今猶存せり、天正年間に至り故ありて久我氏滅亡するや、社領又旧に復して承応年間(一六五二〜一六五五)、一品公遵親王宮日光へ御入山あってより当社を守護せられ、大に社殿を修飾して、世襲の神官を置き毎年春秋二回特に吏を派して境内を視察させると云うことになった。明治十年六月に至り、近郷二十一ヶ村の郷社に列せられ、大正四年三月六日大浦内務大臣によって県社に昇格せらる。当社の境内は頗る広域にして、境内坪数六十四万四千七百五十四坪、周囲三里に及び奥社の鎮座せる神域は風光絶佳にして奇岩奇勝の多き、他比なく全山老杉うつ蒼禽鳥の啼鳴こだまする。末社二十一社が安置されてあるその幽邃と清気は深山石裂山の名をよく物語っている。 境内には県の天然記念物に指定された千本桂あり、号して神代木と云う。 昭和三十年三月、前日光自然公園の指定を受ける。 −『平成祭データ』− |