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車持神社
くるまもちじんじゃ
群馬県高崎市十文字町289
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群馬県高崎市にある。
信越本線・安中駅の北10Kmほどの十文字町に鎮座。
榛名山の東南麓、榛東村から下室田へ通じる154号線から
少し南へ下った場所、十文字公民館の近くに、
東南向きの小さな境内がある。
道の端、境内の角に八衢神の石碑があり、
境内入口には石鳥居が立っており、扁額には「車持神社」。
榛名の神を合祀するため、以前は、榛名神の別名・満行宮と刻まれていたらしい。
鳥居をくぐると正面に入母屋造の赤い屋根の拝殿。
拝殿の後方には春日造に似た形式の小ぶりな本殿がある。
社殿の右手には小さな石祠が並び、
「普開霊神」「御嶽座王大権現」などと刻まれた石碑。
社殿の左手に赤い鳥居があり、狭い階段を下りて行くと
不動尊の石像が祀られている。
不動尊の側には、「泰賢行者」「普寛行者」などと刻まれた石碑。
当社は榛名山の麓にあり、榛名山で修行する行者が
これらの石碑を奉納したものだろうか。
創祀年代は不詳。
『平成祭データ』などの資料によると、
『上野国神名帳』に「従五位上 車持大明神」とある神社。
ただし、境内にあった由緒石碑には、「従五位上 車持若御子明神」とあった。
いずれにしろ、『上野国神名帳』所載の古社である。
車持の社号は、車持公を祀るため。
雄略天皇の頃、乗輿を作り献上したことにより、
車持の姓を賜ったという車持公は、
上毛野君豊城入彦命の後裔である射狭君の末裔で
榛名山東麓一帯を統治していたという古代の豪族。
ゆえに、当地は車の里と呼ばれ、
車が転じて群馬となったという説もある。
別の説としては、渡来人である呉人の住む土地や
朝廷に馬を献上していたからとも。
本殿の屋根に三つ巴紋。拝殿には菊紋らしき紋が付いていたが
当社の神紋かどうかわからない。
社頭 |
鳥居 | 鳥居扁額 |
拝殿 | 普開霊神 |
拝殿 | 本殿 |
社殿後方に由緒石碑と 十文字まつり記念碑 | 境内の石祠や石碑 |
拝殿左手に鳥居 | 階段を下ると不動尊が祀られている |
行者石碑や不動石像 |
車持神社由来
創立年月日は詳らかではないが、上野国神名帳所収の従五位上車持若御子明神は現
在の車持神社である。当社は、車持公の遺徳を追慕し、縁の地に崇祀勧請したものと
伝えられている。車持公は上毛野君豊城入彦命の後裔射狭君の末裔で榛名山東麓一帯
を統治されていたことから、この地は車の里と呼ばれていたのである。雄略天皇のと
き乗輿を作り献上したことにより、車持の姓を賜わり、以後子孫はこの地に居住し、
善政を施したのでやがて地名にまでなったという。また、榛名神社には豊城入彦命を
祀る国租殿があり、神南備の山の榛名神社大神を合祀したものである。祭神 火産霊命 波途夜麻毘売命[原文ママ] 車持公 所在 榛名町十文字芋干場 −境内由緒石碑− 村社車持神社の由来
勧進年月日も詳らかでないが上野国神名帳所載乃従五位上車持明神は当社のことである。本村は榛名山に登る東南の入り口なので昔から榛名神社の分霊及び車持乃公をいつきまつる境内の鳥居に掲げてある古い額面へ満行宮と彫刻がしてある。 一説に本村は和名抄にある群馬郡郷名群馬乃郷で上野国造豊城入彦命乃子孫の住んでいた所である字名上野と称する所にその子孫にあたる車持公が住んでおられたので後人が公の住居した跡に祠を建て車持公に榛名神社大神を合わせ祀ったのだと云われている。創建以来社殿の改築は幾回か重ねられたのであるが現在乃社殿は天正八年九月の造営である。 久留馬村誌に拠る 昭和巳未仲秋 −『平成祭データ』− |
【 車持神社 (高崎市) 】