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諸岡比古神社
もろおかひこじんじゃ
石川県輪島市門前町道下22−1
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式内社 能登國羽咋郡 諸岡比古神社 |
能登半島の門前町(現輪島市)にある。
八ヶ川の河口から1Kmほど、249号線から少し南へ入った道下に鎮座。
社前には小川が流れ、赤い欄干の橋を渡ると境内。
昔の写真では、橋の欄干がガードレールで、味気なかったようだ。
橋を渡ると鳥居があり、
「延喜式内大社 元八ヶ郷百八ヶ村惣社」と刻まれた社号標。
木々の茂った境内の奥に社殿があり、
拝殿の後方には、本殿を納めた覆屋がある。
社伝によれば、当社は崇神天皇の御代の鎮座。
八ヶ川流域の八ヶ郷の惣社であり、
往古は羽咋郡に属しており、式内社・諸岡比古神社の論社の一つ。
社前の川を、鉄川、金川と呼んでおり、
当社は、俗に、鉄河明神と称していたという。
八ヶ川の上流には、有名な総持寺があるが、
元は総持寺の地に鎮座していたが、総持寺創建のおりに、遷座。
総持寺の山号を、諸嶽山と号するのは、
その地が、諸岡比古神社の旧地であるからだといい、
現社地の道下は、諸岡比古神社への参道の下を意味するという。
四條天皇の御代に、走出村に分霊を祀ったが、
後醍醐天皇の御代に神託により戻したという。
江戸時代(寛政の頃)から、当社は石瀬比古神社と称しており、
よって、式内社・石瀬比古神社の論社にもなっている。
ただし、明治の神社明細帳では、
石瀬比古神社に、鉄川神社を合祀したとあり、
鉄川神社が諸岡比古神社の後裔であると考えられなくもない。
社殿の屋根には、巴の紋。
社殿の前の狛犬にも紋が刻まれており、
左の狛犬には巴紋、右の狛犬には菊の紋。
左の狛犬に巴紋 | 鳥居 | 右の狛犬に菊紋 |
境内 |
拝殿 | 本殿(覆屋の中) |
社伝によれば当社御創立は古代崇神天皇の御代の御鎮座とされ延喜式内 の大社なり(延喜式神名帳制定八八一年)貞享二年(一六八六年)由来記によれ ば櫛比八箇之大社銕河宮即ち八ヶ郷百八ヶ村内の百十二社の惣社たり八箇 郷は八庄より其名生れ即ち櫛比庄、二箇庄、本郷庄、浦上庄、阿岸庄、仁岸 庄、七浦庄、大沢庄、有りて各庄には郷社を奉斎し当銕河宮は八庄の惣社た り永禄三年(一五四九年)銕河宮記によれば当宮は壱千有余年の霊地 にして旧三月三日より十八日迄八ヶ郷業を休み郷社大祭に参加したり、延喜 六年(八八五年)醍醐天皇当社に御祈願のため神鏡を御奉納されたり、四條天 皇の御代走出村に分霊を祀りしが神託により元享元年正月本宮に還幸せし め奉る、当時此地は羽咋郡に属したるため羽咋郡十四座の一に列せられたり、八ヶ郷 大祭には特殊神事が奉納され、曳山、流鏑馬、舞童、奉燈、松明、篝火、大鼓、大 旗、獅子舞などと共に各村より神輿が当郷社に渡御され一大郷社大祭が奉仕され たり、其当地流鏑馬は本郷二又川より参宮、本内村からは松明篝火の薪は浦 上村より出で、小石村の木兵衛は薪を出し、勝田の鉾太郎兵衛は鉾を持ち、阿 岸の右衛門、仁岸の左衛門とて御神事の警護役を勤め郷社大祭が行はれ 境内には銕河神事相撲が奉納され壱千有余年の久しき連々として恒例 の祭儀は大社たる事の由縁なり古代元弘建武の頃国内乱れ戦国の世となり 上杉謙信の能登侵攻をまぬがれず当大社も其難を受け、かつては七堂伽藍を有せ し大社として壱千有余年信仰の聖地として盛況を極めたりしものなり中古石瀬比 古神社と称せられしも明治十四年銕河神社と合祀され明治十五年諸岡比古神社 と改称す、明治四十年八月道下氏神住吉神社、善光寺森氏神地主神社、切 配氏神神明神社を合祀す、明治四十一年四月神饌弊帛供進の郷社 に指定さる現在の御本殿は天保三年(一六八一年)百八ヶ村氏子中より御 寄進を仰ぎ献立されたる重要なる文化財である。 −境内案内板(原文ママ)− |
【 諸岡比古神社 (輪島市) 】