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大虫神社
おおむしじんじゃ
福井県越前市大虫町21−28  Zenrin Data Com Maps display !!



式内社 越前國丹生郡 大虫神社 名神大
旧県社

御祭神
天津日高彦火火出見命
配祀 鵜鵜草葺不合尊 大山咋命

合祀 式内社
越前國丹生郡 小虫神社 豊玉姫命
越前國丹生郡 雷神社 大山祇命
越前國丹生郡 雨夜神社 水波之賣命

福井県越前市にある。
武生駅の西4Kmほどの大虫町に鎮座。
365号線から190号線へと、
とにかく西へ真っ直ぐ進むと、当社参道入口に到着。

参道入口には大鳥居が建っており
大鳥居をくぐって、参道を北上すると、もう一つの鳥居。
さらに参道を進み、大虫川にかかる神橋を渡ると
垣に囲まれた境内がある。

境内入口の鳥居の右脇には
「縣社 式内名神大社 大虫神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると正面に社殿がある。

社殿は、拝殿の後方に流造の大きな本殿。
本殿の左右に、外側から見ると白壁の塀があるのだが
その内側には四十八の扉があり、四十八社の末社が祀られている。

境内の左手に、大岩神社という境内社。
「お岩神」と呼ばれる大きな岩が祀られている。
案内によると、大岩神社は当社の奥社あたるらしい。
伝承によると、この岩は自ら動いて山を上り下りするとか。

その岩の左手には池があり、 「石神の湧水」という御神水をひいている。

本殿の背後に廻ると、収蔵殿。
本殿に安置されていた御神像を納めている。
普通、収蔵庫や宝物殿は境内の横にあるものだが
御神像を納めているのなら、本殿の後が相応しい。

社伝によると、国開闢の神として
丹生嶽(鬼ケ岳533m)に鎮座せしを
崇神天皇七年に社地を定め、大蒸大神と称えた。
垂仁天皇二十六年、国中に蝗(イナゴ)が蔓延したため
この神に祈願したところ、悉く退滅し五穀豊作した。
そお神徳を尊み、今の宮地に遷して
虫除守護の神として大虫神社と称えたという。

また『越前国官社考』では
昔、丹生嶽の麓に杉の大木があり、
その梢に悪虫が居て、その鳴声が都まで聞こえていた。
そのため帝は病気になってしまい
勅命により、大伴連の祖・武日語命が
大蒸大神に祈願したところ平癒した。
よって現社地に社殿を造営したという。

以後、朝廷および国司の崇敬篤く
中世、新田・足利・斯波・朝倉等の武将の信仰を受け
社領も全盛時には二万八千石。社人百二十戸に及んだ大社であった。

が、天正四年、柴田勝家の兵火にかかり社殿悉く焼失。
社領も没収されたが、
御神体は数人の社人に背負われ、鬼ケ岳の奥深くへ難を逃れたという。
その後、豊臣秀吉によって再興された。

当社の元社地である鬼ケ岳に
当社の奥宮にあたる龍前神社があり
日照りの時に、龍前神社の前で火を焚き雨乞いをしていたが
現在は、鬼ケ岳火祭りとして有名らしい。

当社に合祀された式内社・小虫神社について。
向宮(キサキノミヤ)と称し、当社祭神の后神を祀り
大虫大神第一の摂社であった。
もとは、大虫大神とともに丹生嶽に鎮座していたが
垂仁天皇の御宇、当社と共に麓へ遷座し
下大虫村(当社の東1Kmほど)に鎮座していたという。
あるいは、当社境内に境内社として祀られていたとも。

当社に合祀された式内社・雨夜神社について。
大虫大神の御子神を祭神とし、
もとは、大虫大神とともに丹生嶽に鎮座していたが
中古より、下大虫村に小虫神社と並んで祀られていたという。

当社に合祀された式内社・雷神社について。
当社社伝によると、天正の兵乱のおりに
大虫神社に合祀されたとあるが、詳細は不明。

当社の神紋は蔦紋。
昔は剣片喰紋だったが、
上記のように、柴田勝家によって社殿を焼失した後、
秀吉が勝家に勝つまで、
蔦で偽装した仮屋で隠蔽奉仕をしていた故事により、
蔦紋に変えたらしい。

境内社は、大岩神社の他に、本殿の左右に一社ずつ、
大岩神社の横に一社、拝殿右手に御魂社がある。
『福井県神社誌』には、
塩土神社、宗形神社、猿田彦神社の名前が記されている。


大鳥居

参道

参道鳥居

境内入口

境内

拝殿

拝殿

本殿背後に神像を安置した収蔵殿

本殿

壁の内側に末社

拝殿の神紋

泉水と御神水

大岩神社

お岩神

大岩神社横の祠

御魂社

大虫神社の由緒
 祭神天津日高日子穂穂出見尊
当社は式内名神大社にして延喜式記載の大社なり。神代より当村(丹生 嶽)の天領にましまし、土地かいびゃくの神にて当初は大蒸神社と称し 奉る也。第十代崇神天皇七年(西暦前九一年)十一月、神地を定め給ひ、第 十一代垂仁天皇二十六年(西暦前四年)国中蝗虫多く発生、五穀人畜に害するを 以て勅使を下向、国民挙げて当社に祈願するに蝗虫悉く退滅、五穀豊作 せし神徳を尊び給ひ、勅命にて七月十六日今の宮地に遷宮し、虫除守護 の神威を尊み、大虫大明神の称号を賜り七十五町歩の地を御田代と定め 百二十戸の社家を封納あり。第四十二代文武天皇二年(七〇五)八月名神の 官社とせられ下りて戦国時代、新田、足利、斯波、朝倉等の諸将信仰 厚く、本殿、拝殿、末社四十八社、回廊等に壮麗な大社なりしが、天正四年(一五七 六)四月二十四日、柴田勝家の為に焼廃せしを太閤秀吉公再興、続いて松平越前守秀康の命 により、本多伊豆守修造あり、その後代々の領主崇敬あり、奉納物多く又修造される。 天正十一年(一五八三)より式内社小虫神社(祭神豊玉姫命)、雨夜神社、雷神社、 若宮神社を大虫神社に合祀す。
 神位正一位勲一等村上天皇天徳三年(九五九)四月十六日。
  天津日高日子穂穂出見尊
  豊玉姫尊正二位(一一八五)


重要文化財
木造男神坐像
(伝天津日高日子穂穂出見命
(伝塩椎神
平成六年六月二十八日 指定
 大虫神社の主神と伝えられる天津日高日子穂穂出見命は、神像特 有の素朴かつ地方色が濃い造形ながら平安時代後期(十一世紀後半 ころと推定)に遡る数少ない大型の遺例として注目される像である。
 一方、摂社塩土社に祀られる塩椎神は、桧の一材から端然と坐す 品格ある姿が巧みに彫成されており、洗練された作風を示している。 その彫り口は十世紀の制作とみられ、男神像の古例として重要視さ れる像である。
 神像彫刻は、仏像彫刻の影響を受けて奈良時代に登場したようで あるが、現存作例は九世紀後半から見られるようになる。本像二躯は、 その初期神像の数少ない遺例の一つで優れた出来栄えを示し、大変 貴重なものである。



大岩神社
 当社は大虫神社の奥の社と称し、古代より上大 虫村(大虫村)山地字水谷に鎮座、神体磐石に座 処往古より神変、奇異の神徳あり。
 後陽成天皇 慶長十三年(一六〇八)三月四日連縄を張る
 明正天皇 寛永十年(一六三三)社建立
 桃園天皇 寛延三年(一七五〇)小鳥居を建立
「帰贋記」に上大虫の西の山に神という石あり。又天狗 岩ともいひならはせり。此の石みずから動いて山下、 山上の所を変える事ありと、昔よりいひ伝えられる。
 石は又五尺四方計(約一、五メートル)有りて人力の及ぶ 所にあらずとある。


祖霊社(御魂社)
 天正四年(一五七六)四月二十四日当時越前の国を支配して いた柴田勝家の重臣。尾上茂右衛門の率いる大軍が 大虫神社の焼討の暴挙を行い本殿、拝殿等十数 棟全てを焼き討ちした。これに立ち向い防戦した 大宮司岡野吉忠ほか権宮司、社家等百四十二柱の御 魂が合祀されている。
 一方、鬼ケ嶽の奥深くへ難を逃れがため数人の社人が、 ご神体を背負い奉り奥山でお守りすること八年、そ の後秀吉公が再興し現重要文化財である。その ご祭神が遷宮される。
 毎年五月上旬御魂社祭を行う。


−境内案内板より−



【 大虫神社 (越前市) 】

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