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新川神社
にいかわじんじゃ
富山県富山市新庄町2−13−45
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富山県富山市にある。
富山地方鉄道・東新庄駅の北東200mほどの新庄町に鎮座。
境内入口は北西向き、覚性寺の南に境内があり、
当社に向っていた道路が、入口で少し湾曲し、
境内脇をすり抜けて行くような感じ。
境内入口に「郷社新川神社」と刻まれた社号標が立ち、
参道を少し入ると石鳥居が立っている。
参拝は十月の終わり頃。境内には七五三詣の幟が立っていた。
参道を進むと左手に手水舎があり、正面にコンクリート造の社殿。
拝殿は銅板葺妻入。屋根は緑で地は白、柱はピンクで、扉はなどは朱色。
境内全体は砂利が敷き詰められ、参道脇の樹木も少し紅葉して
美しい神社なのだが、あいにくの雨後の曇天で暗い写真しか撮れなかった。
創祀年代は不詳。
「三代実録」貞観九年(867)二月二十七日に「正五位上新川神從四位下」、
貞観十八年(876)七月十一日に「越中國新川神並從四位上」
と記されている式外古社。
貞享九年の古記録などによると、
上中下の新川の郡名は、当社祭神・大新川命の名が起源。
また「白山・神明、天神、 大日」を祀り、新川四所明神と称されたとある。
『明治神社誌料』では祭神は大己貴命と大新川命の二柱。
『神社覈録』には「祭神大己貴命、大新河命、面足尊、惶根尊」とある。
また境内石碑には大己貴命が大新川命、白山比咩命が大新川姫とある。
その根本は、新川と呼ばれた常願寺川の川神なのだろう。
天文年間、新庄城主三輪飛騨守長職の守護神であったが
上杉氏による三輪氏滅亡の後、
戦国時代には轡田備後守が新庄城主となり当社を崇敬したという。
以前は、現在の五本榎に社殿があったが、
元和元年(1615)常願寺川の洪水によって社殿浸水し、
新庄城外高台である現在地に遷座。
江戸時代中期より、立山権現社の前立社とされ
新川一郡の崇敬を受け、立山登拝者の参詣が多かったという。
明治二年郷社に列した。
境内左手に石碑がいくつか並んでおり、陰陽石が祀られていた。
リアルだけど妙に芸術的な石だった。
拝殿内部や屋根などに「違い鷹の羽」の神紋が付けられており、
『全国神社名鑑』には、神紋は「鷹の羽違い」と記されている。
鳥居 | 参道 |
境内 |
本殿 | 拝殿 |
境内 |
境内右手に石碑など | 陰陽石 |
新川神社由来 新庄町字屋敷割百七拾参番地
祭神は大己貴命・白山比咩命・天照大神・菅原道真である。大己貴命は大新川命、
白山比咩命は大新川姫命として尊崇される。貞享二年(一六八五)の由来書に「白山・神明・天神云々」とある。 四柱は新川四社権現とも稱された。 戦国時代、志麻郷の八島野(現五本榎)に社殿があり、新庄城の守護神であった。新庄城 廃代後、新川郷近郷の住民は農耕神・水神として信仰し、五穀豊穣、村内安全、 厄除けを祈願した。 元和元年(一六一五)常願寺川の洪水に遭い、現地に遷宮された。 江戸中期から明治にかけ、雄山神社前立社殿として立山登拝者はよく参詣した。 明治二年(一八六九)郷社になる。 昭和四十五年、新社殿を御造営。 現在、琴比羅神、建御名方命も合祀、益々尊崇が篤い。 −参道由緒石碑− 新川神社
御祭神は、大巳貴命、大新川命、天照皇大神、
白山比咩命、琴平羅大神、建御名方命の
六神とある。また、貞享年間(一六八一〜一六八七)
の由来書によると、白山、神明、天神、
大日を祀り、新川四所明神と称されたとある。古来式外社として尊崇され、神階級叙は、 清和天皇の時代に従四位上を授けられ、県内 の式外社としては、最高の位に昇っている。 大巳貴命、大新川命は、古来、現地鎮座の 郷社新川神社の祭神であった。むかしこの地は、 新川庄(当時これを新庄と略言してよんだ) といって尊崇されていた。 中世に入ってからは、三輪飛騨守長職から 代々が新庄に居住し、産土神として神領を 寄進していたが、その後轡田備後守が新庄城主 となり、当社を特に尊崇したが、天正十年 (一五八二)備後守が佐々成政によって 滅されたため、神領を失った。江戸中期からは、 立山権現の御前立社として尊崇され明治六年 (一八七三)郷社となった。 −境内案内− |