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城端神明宮
じょうはなしんめいぐう
富山県南砺市城端1668
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富山県南砺市にある。
城端(じょうはな)線の城端駅の南1。5Kmほどの城端に鎮座。
304号線を南下し、南砺市役所城端庁舎あたりで西へ入った場所。
小学校の南側に境内がある。
参拝は10月中旬、平日の朝8時前。
近くに学校が並んでおり、境内の前の道が通学路になっているようで
多くの児童や学生が歩いていたので、しばし車の中で時間を潰した後に参拝。
境内入口は東向き。
鳥居の左脇に「郷社城端神明宮」と刻まれた社号標が立っている。
鳥居をくぐって境内に入り参道を進んで右手に曲がると正面に社殿。
ということで、社殿は南向き。
鳥居や拝殿の扁額には「神明宮」とあるが、
神社庁の資料には地名を冠した城端神明宮とあり、それが正式な名のだろう。
拝殿は瓦葺入母屋造、後方の瑞垣に囲まれた本殿は銅板葺神明造。
境内に朝日が射しこんで、木々の影がまだらになり写真としては良い出来ではないが、
緑が多く神池も美しくて、とても気持ちの良い神社だった。
境内には絵馬堂や神輿堂、境内社の妙義神社などが散在している。
ところで、妙義神社の祭神は奥津比古神・奥津比賣命で、
群馬県の妙義神社の祭神と違うのだがどういう経緯で祀られているのだろう。
群馬県の社とは関係ないのだろうか。
古くから「大神明(おおしんめい)」と呼称され崇敬された神社。
創祀年代は不詳。社伝によると、元亀三年(1572)、
城端町草創の当初より直海郷伊勢領に鎮座していた太神宮を、
天正二年(1574)に当地の惣社として今の地に遷座したという。
貞享二年(1685)社殿を再建。
嘉永二年(1849)社殿を修築。
明治初年村社に列し、明治五年郷社昇格の内命を受けたが、維持困難を理由に辞退。
昭和二十年、正式に郷社に昇格した。
当社の神紋は三つ巴紋。
『全国神社名鑑』には左三つ巴と記されているが
神馬像や拝殿の提灯、旗の台などに右三つ巴の紋が見られた。
左、右の呼び方は頭の向きを見るか、尾の向きを見るかで異なるので
当サイトでは「三つ巴」とのみ記しておく。
社頭 |
社号標と鳥居 | 境内参道 |
境内 |
絵馬堂か? | 神池 |
牛像 | 境内鳥居 |
社殿 |
拝殿 | 本殿 |
拝殿扁額 | 妙義神社 |
郷社城端神明宮 所在 富山県東礪波郡城端町一六六八 旧神明島 城端町南郊山田川沿い丘陵上に位し、土地高燥にして境内老杉鬱蒼、森厳自らなる神境である。 由緒 直海郷伊勢領御鎮座の大神宮を、天正二年今の宮地に御遷宮祀る。貞享二年社殿を再建、嘉永二年再修築奉る。明治二年村社、昭和二十年郷社に列格す。古来数多の奉納品が伝承され、大神明と呼称し、崇敬されている。 御祭神 天照皇大神(神明)誉田別命(八幡)天児屋根命(春日)の三柱を主神とし、相殿神として菅原大神(天神)別社妙義大神(妙義)を祀る。 ご縁起 ご奉斎する尊き神々の御名と、ご神徳を恐みて仰ぎ奉るに、 ・天照皇大神(神明さん)峻徳昂き、国家創世の皇祖神 ・誉田別命(八幡さん)聡明玄監深き、皇崇神 ・天児屋根命(春日さん)国家祭祀の司護神にて、氏祖神 相殿神として・菅原大神(天神さん)文芸勧学の守護神 妙義神社には・奥津比古神・奥津比売命(妙義さん)火災除の守護神 五柱の神々を併せ祀りて、(大神明)(郷社神明宮)と称え奉り、崇め奉るなり。 往古よりその祭祀奉斎をみるに、貞享二年社殿を再建、元文四年神輿堂絵馬堂を建立、嘉永二年社殿のご造営、昭和四十八年中殿斎館を建立、百年又は紀記年毎のご遷座式年祭、奉祝算賀祭を仕奉るなり。 二拝二拍手一拝の奉拝は、諸願悉々くご神意にふれ、ご恩頼を仰ぎ奉り、忝なみ奉りて、ご縁起申し上げるなり。 −『平成祭データ』− |