[HOME]  >  [神社記憶]  >  [東海地方]  >
メニューを消去する。ページを印刷するために。 印刷用ページ


阿射加神社
あざかじんじゃ
三重県松阪市小阿坂町120  Zenrin Data Com Maps display !!


花菱


五瓜に梅鉢

式内社 伊勢國壹志郡 阿射加神社三座 並名神大

御祭神
猿田彦大神

三重県松阪市にある。
松阪駅の西8Kmほどの小阿坂町に鎮座。
松阪市の北西に位置し、阿坂城のある阿坂山(現、枡形山312m)の東麓、
伊勢道松阪I.C.入口から北へ1.5Kmほどの場所。
58号線を北上し、小学校の横を西へ入ると当社の社域が見えてくる。

境内入口は東向き。
入口には白い神明鳥居が立っており、
鳥居の右脇に「禁殺生」「阿射加神社」と刻まれた石柱。
伊勢周辺の古社では、同様の石柱が社前に立っているようだ。

鳥居をくぐり参道を進むと鳥居や橋があり広い境内。
その境内の西端に鳥居が立っており、階段を上ると神門。
神門が拝殿を兼ねた構造で、神門の中央に賽銭箱が置かれており、そこで参拝する形式。

神門の奥、玉砂利が敷き詰められた場所に、
瑞垣に囲まれた本殿が三棟並んでいる。

本殿の屋根には花菱紋。
『三重県神社誌』にも当社の神紋は「花菱」と記されているが、
境内左手の厩屋内には五瓜の中に梅鉢の紋が染められていた。
当社の神紋は花菱紋で間違いはないだろうが、この梅鉢紋も載せておく。
ただし、当社の神官は明治まで菅原氏が務めていたらしく、
神官である菅原氏の紋なのかもしれないが。

参拝は三月中旬。
式年遷宮を終えた伊勢神宮への参拝の帰りに立ち寄ったが、あいにくの雨。
ただ当社のように緑の多い神域では、雨の日の参拝も心地よい。

式内社・阿射加神社三座に比定される神社であり、
『続日本後紀』に承和二年(835)十二月甲申
「奉授阿耶賀大神從五位下。此神坐伊勢國壹志郡」とあり、
『文徳実録』に嘉祥三年(850)十月辛亥「伊勢國阿耶賀神從五位上」、
斉衡二年(855)正月壬寅「以伊勢國阿耶賀神。預於名神」、
斉衡二年(855)正月丙午「伊勢國阿耶賀神…並加從四位下」、
『三代実録』に貞観元年(859)正月廿七日甲申
「伊勢國…從四位下阿射加神從四位上」とある古社。

当社は行基が勧請した社であるとする説もあるが、
『皇太神宮儀式帳』によると、
倭姫命が皇大神の御神霊を奉じて美濃国から伊勢国に入り、
桑名・鈴鹿の宮を経て「壱志の藤方の片樋宮」に遷った時、
阿佐鹿の悪神を平定した阿倍大稲彦をお供とした。
また、壱志県造等の遠祖である建呰子(たけあざこ)に国の名を問うたところ、
『宍往呰鹿国(ししゆきあざかのくに)』と答えたという。

『倭姫命世記』などによると、
安佐賀の山の嶺に荒ぶる神がおり、宇治の五十鈴の川上の宮へ行くことが出来なかった。
倭姫命がこの荒ぶる神の所業を天皇に申し上げるため
大若子命たち三人を朝廷へ遣わされたところ、
天皇は大若子命に命じて様々な贈り物を荒ぶる神に捧げ、
ついに安らかに鎮めることができ、安佐賀に社殿を建て、
荒ぶる神である伊豆速布留神を祀ったのが当社の起源。
垂仁天皇十八年四月十六日のことであるという。
その後、山上から現社地に遷座したとも伝えられているらしい。

この伊豆速布留神が当社の祭神・猿田彦大神のことであるという。
現在の祭神は猿田彦大神一柱なのに本殿が三棟あるのは、
『古事記』に猿田彦大神は阿耶訶に坐していた時、
比良夫貝に手をはさまれて海中に沈み溺れてしまった。
そのとき水底に沈んだときの名を「底度久御魂」、海水に泡が立つときの名を「都夫多都御魂」、
水面に出て泡が開くときの名を「阿和佐久御魂」とあり、
猿田彦大神の三つの御魂を祀っているという。

これら猿田彦大神の記述は伊勢・志摩の海人族との関係を示すものだろうか。
綿津見神墨江三前大神のように、
海に関る神は、三つの形態をとるということだろうか。

また三棟の中央の祠が龍天大明神、北(右)が神明社、南(左)が熊野社(あるいは春日)とする資料もあり、
さらに猿田彦大神・伊豆速布留神・龍天大神とする説、
猿田彦大神の三妃を祀るとする説や、伊豆速布留神・大国主命・天日別命とする説など。
いずれにしろ、延喜式に阿射加神社三座とあり、三座の神を祀っていると思われる。

ただし、阿射加神社三座に関しても諸説あり、
当社に三座とする説の他に、阿佐加山上の社が分離して、
大阿坂町に鎮座の同名社と他の一社の三箇所を合わせて三座とする説もある。

この場合のもう一社に関しても、一志村(嬉野一志町)の産土神、大阿坂町の浄眼寺付近、
嬉野黒野町付近にあった可能性を示唆する資料もある。

ところで、荒ぶる神・伊豆速布留神は道行く人が百人いれば五十人殺すという恐ろしい神。
荒穂神社の鎮座する佐賀県の基山にも、この半分殺す荒ぶる神の話があるのだが、
阿佐賀と佐賀がちょっと気になる。

境内左手の厩屋内には頭を垂れた白い神馬像がいた。

境内右手には、当社に縁の深い大若子命を祀る摂社・大若子神社。
大若子神社には住吉大神、宇迦之御魂神、天日別命、金山彦命、大山祇命、
火之迦具土神、誉田別尊、貴船大神、菅原道真、八王子大神、素盞鳴尊、不詳一座など、
もと境内社や周辺の旧無格社などが合祀されている。
大若子神社の入口に鳥居が二つに分かれたようなものがあり面白い。

その大若子神社の左脇に祠があるが、格子戸を覗くと、
面白い表情をした、陶器らしき小さな狛犬がいくつも並んでいた。


社頭

鳥居

「禁殺生」

参道

参道

参道の鳥居と橋

境内

境内

拝所

神門

中門と三棟並んだ本殿

本殿

本殿

摂社・大若子神社

大若子社横の祠の中に狛犬

厩屋内の神馬像

阿射加神社と猿田彦大神
神代の昔我が伊勢の国をお治めになってゐたのは猿田彦の大神でありました。此の猿田彦の大神が御かくれになったのが阿邪訶(アザカ)の海であります。阿邪訶は阿射加又は浅香とも書き、後世は専ら阿坂の字を用いてゐます。
ところでここに一つの疑問は阿邪訶の海と云ふことであります。人も知る如く今日の松阪市小阿坂町は、伊勢湾の海岸からそ凡二里を距る山寄りになりますが、太古に阿邪訶と申したのはずっと広い地域を籠めて申した者で、大たい一志郡東部の平坦地の総称であったと思われ、具の阿邪訶の親村が今日の阿坂であったと考へられるのであります。阿坂と云ふところは伊勢の国の内で最も古い歴史を有ったところで、既に神代の昔から知られていました。恐らく日本の内でも最も早く開けたところでありませう。
而して我が伊勢の国の内何処が一番肥沃であるかと申し燃すと、それは一国の胴部にあたる一志郡の平野、即ち古への阿邪訶の地であります。猿田彦の大神は恐らく此の阿邪訶を中心として伊勢の国を統治なさってゐたものと思います。
松阪市小阿坂町には阿射加神社と申す古い神社今も昔ながらに御鎮座になって居ますが、此の阿射加神社こそは猿田彦の大神を斎き祀るところの神社であるのであります。古代伊勢の中心である小阿坂町に伊勢の国つ神出あられた猿田彦の大神を奉祀するところの阿射加神社が鎮まり坐ますことは、極めて古い御歴史と、最も深い御由緒とによらなければなりません。
古へは毎年二月の祈念祭と、六月十二月の月次祭と、十一月の新嘗祭とに朝廷の神祇官に於いて、由緒ある神社への班弊が行われ、おほ祈念祭には、諸国の国史庁に於いても班弊が行われました。其の班弊に預かり給ふ神社、即ち官弊社、国弊社の社名を朝廷の方で登録した帳簿がありました。それが即ち醍醐天皇の御代に勅命を以て編纂せしめられた延喜式に載するところの神名帳上下二冊であり、其の神名帳に出て居る神社のことを式内社と申して居りました。また諸国の神社の内で特に朝廷の御崇敬の事実が日本書記以下の勅撰の歴史、所謂六国史に載せられてゐる神社のことを、国史、現在社と云ひ習わして参りました。伊勢松阪市の阿射加神社は式内社であると同時に、また国史現在社でもあったのであります。
式内社は日本全国に亘って沢山有りました。其の総数は三千一百三十二座にも及んで居りまたが、それらは総て大社と小社とに区別されてゐました。我が伊勢の国に於いては、式内社総数二百五十三座の内、大社が十八座で、他の二百三十五座は皆小社でありました。其の大社十八座の内、七座は皇大神社と度会宮即ち豊受大神宮、七座は其の別宮で、残る四座の内の一座が桑名郡の多度神社、三座が松阪市の阿射加神社であったのであります。即ち我が伊勢に於いて、神宮に亜いで尊い神社とは申せば、それは阿射加神社であったのであります。
而して其の御祭神の三座とありますのは、猿田彦の大神がおかくれになる時に現れ給うた三つの御魂、底度久御魂、都夫多都御魂、阿和佐久御魂をお祀りしたものでせう。なほ阿射加神社は式内大社であったばかりでなく朝廷に於いて最も重しとせられた名神の祭にまでも預かって居られるものであります。式内大社にして名神祭に預られることは、とうじの神社としては最高至上の御資格でありました。阿射加神社は実にかくの如き尊い社格を有せらるるところの名社であったのであります。
以上述べましたところの事実は、阿射加神社に対し朝廷に於いて如何に尊崇を尽くされたかを物語るものでありますが、なほ此のことを立証するものとして、仁明天皇の承和二年本社に従五位下の神位を授けられ、尋いで文徳天皇の嘉詳三年には従五位上を司斎二年には従四位下を、清和天皇の貞観元年には従四位上を授けられ、更に同八年従三位に進められた事実を挙げ得るものであります。そもそも本社に対し朝廷がかくの如く崇敬を尽くされた所以のものは何でありませうか。それは申すまでもなく、御祭神として仰ぎまつる猿田彦の大神嚇々たる御神内と洪大無辺なる御神威、御神徳によるものであります。
天孫瓊々杵尊が初めて此の豊葦原の瑞穂の国へ天降り坐した時、其の御途上、天の八衢と云ふところまで御いでになりました。天の八衢とは道が幾条にも分かれてゐる分岐点を意味するものでありまして、天孫は御前途を果たして何れの道に取らせるべきか大いに御迷ひになりました。然るに猿田彦の大神果たして天孫降隣の御事を聞かれて、取り敢闘へず天の八衢までお迎えに上られました。さうして天孫の御進みになるべき御道筋について具さに奉上され、天孫はその猿田彦の大神の御指示のままに、日向の高千穂の峰にお降りになったのであります。若し其の猿田彦の大神がお迎えに上られなかったならば天孫は如何にお困りになったことでせう。或は取るべき道を踏み違え給ふて、とんでもないところへ迷い入られ、終には此の瑞穂の国へ御到着荷なることが出来なかったかも知れません。天孫が御恙なく日向の国に御降隣になることを得させられたのは、全く猿田彦の大神導きの功であったと申し上げなければなりません。
猿田彦の大神は我が伊勢の国の国津神であられます。同時に皇大神宮の御宮地に対しては、地主の神として申し上ぐべき神であります。古来二十年毎に行われる神宮の式年遷宮諸祭中の地鎮祭には、宮処を敷き坐す神を祭りますが、其の神内で最も重要なる位置を占められるところの神猿田彦の大神でありませう。神宮の地主神として御宮地を長へに護り給ふところの猿田彦の大神は、また地祭りの神として日本国民の上に洪大なる神恵を垂れ給府のであります。
このように阿射加神社は猿田彦の大神を、お祀りする神社の中で最も由緒ある神社であります。この猿田彦の大神御事蹟にも明らかなように、道案内の神、つまり地鎮の神であると共に交通安全の神として敬い奉られるわけであります。
松阪市小阿坂町百二十番地鎮座阿射加神社

−『平成祭データ』(原文ママ)−



【 阿射加神社 (松阪市小阿坂) 】

ボーダー




東海地方
japanmap
全国 北海道・東北地方 関東地方 甲信越地方 北陸地方 東海地方 関西地方 中国地方 四国地方 九州・沖縄地方
愛知県

静岡県
伊東市
伊豆の国市
伊豆市
下田市
賀茂郡 河津町
賀茂郡 松崎町
賀茂郡 西伊豆町
賀茂郡 東伊豆町
賀茂郡 南伊豆町
掛川市
湖西市
三島市
周智郡 森町
駿東郡 清水町
駿東郡 長泉町
沼津市
焼津市
榛原郡 吉田町
静岡市 葵区
静岡市 駿河区
静岡市 清水区
田方郡 函南町
島田市
藤枝市
熱海市
磐田市
浜松市 中区
浜松市 西区
浜松市 北区
浜松市 天竜区
富士宮市
富士市
牧之原市

岐阜県
安八郡 安八町
安八郡 神戸町
安八郡 輪之内町
羽島市
加茂郡 東白川村
加茂郡 白川町
岐阜市
恵那市
高山市
大垣市
中津川市
飛騨市
不破郡 垂井町
揖斐郡 大野町
揖斐郡 池田町
揖斐郡 揖斐川町
養老郡 養老町

三重県
伊賀市
伊勢市
桑名市
志摩市
松阪市
多気郡 多気町
多気郡 大台町
多気郡 明和町
鳥羽市
津市
度会郡 玉城町
度会郡 大紀町
度会郡 度会町
名張市
鈴鹿市