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岐佐神社
きさじんじゃ
静岡県浜松市西区舞阪町舞阪1973  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

式内社 遠江國敷智郡 岐佐神社
旧郷社

御祭神
蚶貝比賣命 蛤貝比賣命
配祀 市杵嶋比賣命

静岡県浜松市にある。
舞阪駅の西1.5Kmほどの舞阪に鎮座。
小学校の南に、南向きの境内がある。
境内から西へ300mも行けば浜名湖という場所。
というより、浜名湖の入口に突き出た砂丘上に町があり、
その中に境内がある。

二基の鳥居が建つ参道の奥、階段上に社殿がある。

社殿の右前には、細長い御神木。
残念ながら、何の木かは、わからない。

創祀年代は不詳。
式内社・岐佐神社に比定されている古社。
以前は、八王子社とも呼ばれていたらしい。

社号の「岐佐」は、鎮座地である
象嶋郷(きさしま)に由来する、あるいは
祭神・蚶貝比賣命(きさがいひめ)に由来すると考えられている。

明応七年(1498)の大地震・大津波によって
社殿が流失し、現在地の柳の古木の根本に漂着したという。
漂着した場所に社殿を建てて祀り、
周囲に集まって集落を形成したのが三十六戸であったため
社地周辺を三十六屋敷と呼ぶという。
ところで、流失以前の古社地はどこにあったのだろう。

祭神は、蚶貝比賣命蛤貝比賣命
『古事記』において、兄神である八十神たちに猪であると騙されて、
焼けた大石を抱き止めて、大火傷を負った大国主命の治療にあたった
神皇産霊神の二柱の娘神。

浜名湖と遠州灘に近い当地において、
生活における貝の重要性を神格化したものだが、
加えて、貝が健康食品として、古代から認識されていた証。

社号は「岐佐」であるから、
蚶貝比賣命(赤貝)の方が主として祀られていたのかも。

出雲に、蛤貝比賣命(うむがいひめ:はまぐり)を主祭神とする
法吉神社が鎮座している。

画家青木繁の作品・大穴牟知命「おおなむちのみこと」に
火傷した大穴牟知命(大国主命)を治療する、
蚶貝比賣命と蛤貝比賣命が描かれている。


(1905年 石橋美術館所蔵)


参道

境内

社殿前の御神木

境内

社殿

社殿

岐佐神社由緒
御祭神蚶貝比賣命
蛤貝比賣命
御由緒
平安時代に書かれた『延喜式神名帳』に 遠江国六十二座・敷智郡六座の一として 記載されており千年以上の古社である。
明応七年(一四九八年)の地震津波では 浜名湖の湖口が切れて今切れとなり 舞澤の郷は人家と共に水中に漂没した 満目荒涼たる砂丘上の柳の古木の根本に 『岐佐大明神』の小神祠を見つけ住民は 社殿を建立して祀った。
これが現在の御鎮座の地である。
無事難を逃れた住民は付近の松原に 部落を作り現在の舞阪町のもとをなした これを三十六屋敷という。
天正二年(一五七四年)以来、数次の 本殿・拝殿再建の棟札を保存している。
慶長六年(一六一〇年)伊奈忠次公より 御神領三石、慶安元年(一六四八年) 徳川家光公より御朱印状により 神領五石を奉献され明治維新に至る。
明治六年(一八七三年)郷社に列し 大正九年神饌幣帛料供進指定社となる。
現在の社殿は大正元年の造営である。

−境内案内より−



岐佐神社

参拝のしおり

当社は、静岡県浜名郡舞阪町(まいさかまち)に鎮座しており、神社界の最も古い記録といわれる『延喜式 神名帳(醍醐天皇延喜五年・西暦九二七年)』によれば遠江国六十二座、敷智郡六座の一社として『岐佐神社』の名が記録されており、このグル−プの千数十年以上の 古いご由緒を持つ神社を『式内社』と呼ぶ。
神社覈録(かくろく)によると「孝徳天皇三年(大化三年 六四七年)丁未十一月 『岐佐神社に、天児屋根命を祭る。』とあり、亦、特撰神名牒には「蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祭る」とある。仮に、大化三年に岐佐神社が創建されたとしたら、既に千三百四十有余年を経ていることになる。遠江国風土記傳に「昔、象島(きさじま)と号せし所以は、此地海中に岐佐貝多く生ずればなり、後、澤となり廻澤と号す。其の澤も亦海と為る。」とある。これらを総合すると御祭神の『蚶貝比賣命』と郷名『象島』は『キサガイ』(あかがい)とは関係が深いものと思われる。
岐佐神社の境内に産土神 俗に御親様(護神様)といわれている神社がある。この御親様(護神様)には 皇太神宮(天照大御神豊受大御神) 春日大社(天児屋根命) 津島神社(須佐之男命)の御分霊をお祭りしているので、神社覈録では「岐佐神社に天児屋根命を祭る」といったのであろうか。『岐佐神社由来記』に「明応の変(明応七年、 一四九八年八月二十五日)に舞澤の郷は、人家と共に海中に漂没せり。この変に 満目荒涼・四顧粛条たる堆砂の丘の上に柳の古木あり、その下に小神祠漂着あり『敷智郡岐佐神社』とあり。駅長浅野美時 三十六屋敷の里人と其所に社殿を造りて之を祀る。」とある。これが、現在の鎮座地である。(旧鎮座地は、辨天島の付近であっただろうか?)
御祭神[蚶貝比賣命蛤貝比賣命]に関する神話
奈良時代(七一二年)に書かれた『古事記』に、次のように記されている。
大国主命とその兄君の八十神とが恋争いの末、大国主命が八上比賣命と結婚する。恨みに思った兄君たちは、「手間山から赤猪を追い出すから捕らえろ。」と言い付けて真っ赤に焼いた大石を転がした。その石を抱き止めた大国主命は、大火傷を負って死んでしまわれた。悲しんだ母君の切なる願いで、神産巣日神の御子蚶貝比賣命は『あかがい』の貝殻で白い粉を作り、蛤貝比賣命は『はまぐり』の水を出して練り合せ、乳汁のような膏薬を作り、全身に塗り付けた。大国主命は、元の麗しい元気なお姿におもどりになられた。
棟札  天正二年(一五七三年)三月十一日 本殿再建 以来十一枚の棟札を保存す。
墨印状 慶長六年(一六0一年)二月十五日 伊奈備前守忠次公より、本社神領として墨印石高三石の寄進あり。
朱印状 慶安元年(一六四八年)三代将軍徳川家光公より右神領を御朱印状(高五石)に改め御寄進あり。綱吉公・吉宗公・家重公・家治公・家斎公・家慶公・家定公 家茂公よりも同様の御朱印状を受ける。
祭禮  旧暦九月十四日・十五日
慶安元年(一六四八年)『祝詞』、安永五年(一七七六年)『幟建立発願』などの古記録によると江戸時代初期には、現在のような祭禮が行なわれていたものと思われる。神輿は文政元年(一八一八年)名古屋より購入せしものなり。

−『平成祭データ』−

社殿の左側に、赤石が祀られている。
当社祭神の活躍する古事記の物語に登場する、
大国主命の抱いた赤石を象徴しているようだが。


社殿のそばにある赤石

赤石の御由来
古事記に登場する「因幡の白兔」に続くお話です。
大国主命は、兄君たちとの恋争いの末、八上比売と結 婚の約束をします。恋に破れた兄君たちは、大国主命 を、手間山に呼び出して殺そうとはかり、「山の上か ら猪を追い降ろすから、山の下で捕えろ」と言いつけ て、真っ赤に焼いた大石を、転がり落しました。
この大石を抱きとめた大国主命は、大火傷を負い、命 を落しました。これを知って悲しんだ母神は、天上の 神皇産霊神に命ごいをされます。
神皇産霊神は、娘神で岐佐神社の御祭神である 『蚶貝比売命蛤貝比売命』に言いつけて大国主命の 治療に当たらせます。蚶貝比売命(赤貝の神)は、貝 殻を削って白い粉末を作り、蛤貝比売命(蛤の神)は、 粘液を出して練り合わせ、どろどろした母乳のような ものを作り、大国主命の全身に塗りました。すると火 傷はすっかり治り、大国主命は雄々しい姿によみがえ ったのです。
出雲神話と岐佐神社は、このようなかかわりがあり、 ここに『赤石』がまつられています。御祭神が海に関 係するところから、水産・漁業の守り神であるととも に、この神話に因んで、火傷・病気にも霊験あらたか と信仰を集めています。

−境内案内板より−



【 岐佐神社 (浜松市) 】

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