|
式内社 石見國那賀郡 石見天豊足柄姫命神社 旧県社 天豐足柄姫命 配祀 豐受姫命 |
島根県浜田市にある。
浜田駅の西1Kmほどの殿町に鎮座。
殿町の交差点から、松浦湾へ北上する道が
少し湾曲している場所。
浜田警察署の隣にあり、道路に面して南向きに境内がある。
境内入口の鳥居の横に、草に隠れて、
「石神社記」と刻まれた碑文がある。
当社は、通称を石神社といい、地図にも石神社と記されている。
鳥居の正面が社殿で、後方に本殿。
社殿の右側に、境内社・亀山神社が付属しており、
その後方には、「浜田城主歴代碑」の石碑が建っている。
どうやら、浜田藩と強い関連のある神社のようだ。
創祀年代は不詳。
祭神・天豐足柄姫命に関しても不明。
石になった女神とする説があるらしいが、
当地では、衣食の道を教えた、殖産興業の女神として
崇敬されている。
三代実録には、「石見国石神社授従五位下」とある神社。
元和六年(1620)、吉田大膳太夫重治が、
伊勢国より浜田へ入部し、浜田城を築城、
城下町経営を開始するにあたり、城郭内に祀ったという。
以来、城主の崇敬篤く、明治になって県社となった。
配祀の豐受姫命は、境内社・稲荷神社に祀られていたが、
明治七年四月に、本社に合祀されたもの。
境内社・亀山神社は歴代浜田城主を祀っており、
祭神は多い。
古田重治・古田重恆・松平康映・松平康宦・松平康員・松平康福・
本田忠敞・本田忠盈・本田忠肅・松平武聰・松平康定・松平康任・
松平康爵・松平齋厚・松平武揚・松平武成・松平康豐。
社殿には、亀甲に三石の紋。
石神社と称されていることから、石を用いているのだろう。
なぜ三つなのかは知らないけど。
|
石神社記
−境内碑文より− 碑文の解説
石神は石見の天豊足柄姫命を御祀りしてある神で
ありその伝によると神が石と化した事は根拠がな
くて信ずる事が出来ない推測する処では神は石見
国をお開きになって民に功徳を与えられたので民
はその徳をお慕い尊んで御殿を造ってお祭りした
ものであったその位式内にのっているのを観ると
当時の御殿がいかに大きくしかもお祭りが厳粛で
栄えたことを知る中古以来禍乱が相続いてお祭り
も出来ず廃れたことが数百年明治の世になって藩
を廃し県が置かれ信寛この地方を治める事になっ
て朝廷に敬神の念あるを申し上げ石神の由縁のあ
る処となってその後復興に萌え茲に新しく御殿を
造ってお祭りをし県社とすることを議り県民をし
て末永く尊崇するようにしむけたこの事をしるす為に石に刻みつけた −境内案内板より− 浜田城主歴代碑と亀山神社
「世ニ功烈アリ民ニ徳沢アル人ノ霊ハ宜ク 祭祀ヲ挙テ千歳ト雖モ奉セサラシムヘク・・・」 の一文は、歴代碑建立にあたって配布された 趣意書の書き出しである。碑建立の意義をよ く説いている。即ち、松平周防守康福の百年 忌(実は九十二年)、右近将監斉厚の五十年 忌にあたる明治二十一年(一八八八)五月に 藤井宗雄・篠田貞臣ら旧浜田領内の有志四十 二名で主唱者となり浄財を募り、四家十八代 の城主名を碑に刻み、拝殿等を整備する事業 を起こした。 当初は建立場所を古城山とし、八月三十一 日に落成する計画であった。しかし諸般の事 情のためか事業は遅れ、明治二十五年六月と なり、場所も石神社境内の一隅に変更になっ た。碑の総高約四・三メートル、三層の台石 の上に約二・三メートルの碑が建っていて、 周囲には玉垣がめぐらされていた。また右近 将監家の子孫である松平武修公が奉献した一 対の灯籠が残っている。また拝殿の前には二 円以上の寄付者の芳名を刻んだ碑も建ってい るが剥落がひどくその半数近くが不明となっ ている。 現在、この亀山神社は石神社の境内社とし て護持され、一時中断した時もあったが毎年 九月に例祭が執行され、歴代藩主の遺徳をし のんでいる。 −境内案内板より− |