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二宮神社
にのみやじんじゃ
広島県福山市神辺町八尋1203  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 備後國安那郡 多祁伊奈太伎佐耶布都神社

御祭神
大日本根子彦太瓊命 吉備津彦命
細比売命 吉備武彦命 稲田姫命

広島県福山市にある。
井原鉄道・御領駅の東1.5Kmほどの神辺町八尋に鎮座。
東西に走る102号線と、南北に走る189号線が合流する地点から
200mほど西側にあるのだが、言葉では説明しにくい場所。
とにかく、行けば分かるとしか言えないのだ。

参道入口に古びた鳥居(江戸中期)が立っており、
緩やかに参道の坂道を登っていくと神門。

さらに参道を進むと、境内入口。
構えとしては、神社と言うよりもお寺の雰囲気。
鳥居ではなく、参道左右に石柱が立っているのもお寺っぽい。

階段を上ると、正面に黒褐色の社殿。
参拝は、冬の夕方で、少し暗くなり始めた頃。
参道脇は、枯葉の絨毯を敷き詰めたようで良い雰囲気。
ただし、境内には枯葉は落ちていないので、
丁寧に清掃管理されているのが分かる。

山の斜面に南面して鎮座しており、良い雰囲気の神社。

創祀年代は不詳。

社伝では、もとは稲田姫命のみを祀った神社であったが
備後国一宮・吉備津神社から四柱の祭神を勧請合祀して
二宮五社大明神と称し、備後国二宮として崇敬された神社。

『水野記』によると、
古来社領は七十貫、社職十六人、末社、回廊、鐘楼等を有する大社であったが、
杉原盛重の時、社領二十五貫に減ぜられ、
さらに毛利元康の時に悉く没収されたらしい。

参道の西にある蓮乗院は当社の神宮寺で
当社祭神の五躯の仏形御神体が祀られているらしい。

当社を式内社・多祁伊奈太伎佐耶布都神社とする説があらしい。

境内には境内社が幾つか祀られている。
社名を確認したのは、荒神社、出雲大神、地主大明神、
木ノ山様、猿田稲荷、荒岩様、光田稲荷。


鳥居

参道

神門

境内

境内

社殿

社殿

社殿

本殿

荒神社、出雲大神

木ノ山・稲荷社、地主社

境内社

境内社

キビツヒコノミコト
吉備津彦命
オオヤマトネコヒコフトニノミコト
大倭根子彦太瓊命孝霊天皇
クワシヒメノミコト
細比売命
キビタケヒコノミコト
吉備武彦命
イナダヒメノミコト
稲田姫命
例祭
十月十日(旧例祭日:十月十九日)
由来
創立年代不詳。古来当地には、稲田姫命鎮座の処へ、備後一宮 (吉備津神社)より四座を再勧請して合祀し、二宮五社大明神と称し 備後二宮として人々の崇敬をうけていたが、慶応四年の 神仏分離令により二宮神社と改称された。
参道西側にある蓮乗院(真言宗大覚寺派)は神宮司であり 五躯の仏形御神体は現在蓮乗院に祀られている。
「水野記」によれば、古来社領七十貫、社職十六人、末社回廊、 鐘楼等を有する大社であったという。神辺城主杉原盛重 (一五六〇年頃)の時、社領二十五貫に減ぜられ、 更に毛利元康(毛利元就の第七子)の時に悉く没収された。 社殿は天文三年(一五三四)火災に遭い、永禄九年(一五六六)再建され 杉原盛重等により右記の御神体五躯(栴檀製)が寄進されている。 天録八年(一六九五)水野勝慶(水野勝成四世の孫)により社殿を 再建され、明和元年(一七六四)石鳥居を建立、寛政四年(一七九二) 随神門の再建が行われたが、文化四年(一八〇四)再度火災に遭い 文政十三年(一八三〇)現本殿を再建立した。昭和二八年(一九五三)に 幣殿、拝殿の新築を行い、昭和五四年本殿の屋根を銅板に葺替工事、 昭和六十三年本殿並びに境内の改修工事が行われた。

−境内案内より−



【 二宮神社 (神辺町) 】

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