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富田八幡宮
とだはちまんぐう
島根県安来市広瀬町広瀬85  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

旧県社

御祭神
應神天皇
配祀 天照大御神 神功皇后 仁徳天皇

境内社 式内社 出雲國意宇郡 勝日神社
大己貴命 相殿 須佐之男神 稲田姫神

安来市から南西に延びる45号線、広瀬にある。
飯梨川に沿って走る45号線の側に、鳥居があり、
参道を進むと、階段下にも鳥居。
階段を登ると、神門があり、さらに参道が続く。

立派な楼門の中が境内で、正面に社殿がある。
左手には、境内社の武内神社。

右手奥に、式内勝日神社
古色の社殿と苔の緑の境内は、落ち着いた空気に満ちている。

川向う、東に月山(183.8m)があり、その山頂に
勝日高守神社がある。「高守」とは奥宮の意味で、
当社境内の勝日神社は、里宮にあたる。

古事記にある以下の説話。
国造りの途次、少彦名命が常世の国に帰られ
大国主命が一人思案していると、海中に光が現われ、
「我は幸魂の神」と告げ、国土経営を助けられた。

その国土経営を決意をしたのが当地であり、
欽明天皇三十一年、山頂に大国主命の幸魂神(勝日高守神社)を
山麓に大己貴命(勝日神社)を祀ったのが創祀。

保元年間、平家の将悪七兵衛景清が
富田の城郭を築くにあたり現在地に遷座。
その後、八幡信仰が盛大となり、
八幡宮が本社となり、勝日神社は境内社となった。

明治の格付では、富田八幡宮、勝日神社ともに郷社となったが、
同一境内に同じ社格では都合が悪いということで、
勝日神社の社格は廃された。
勝日神社は、出雲国風土記に「加豆比乃社」とある神社。

階段下の鳥居の右にもう一つ鳥居があり、須賀社という社がある。

境内には多くの境内社があり、それぞれに狛犬も配され、
よく祀られている印象。
中でも、本社社殿左の武内神社は、普通の神社に匹敵する。
境内右奥の勝日神社社殿も立派ではあるが、拝殿や垣はない。

神紋は『式内社調査報告』には五三桐、
『神国島根』には三つ巴とある。


45号線の鳥居

社前

階段下の鳥居

参道階段

鳥居横にある須賀社

須賀社社殿

神門

参道の稲荷社

参道の境内社

参道

参道の石碑

楼門

境内と拝殿

本殿

本殿

式内 勝日神社

本殿左側 武内神社

大社神社

蛭子神社

酒解神社

由緒 社伝に拠れば欽明天皇三十一年に創立とあり、もと月山(旧称勝日山)に祀られてあったが保元年中平氏の将悪七兵景清出雲に来りこの月山に城郭を築かんと欲し神廟と居を同くする事を恐れて遷し奉らんと闇夜虚空に白羽の箭を放って霊地を定め今の地に遷して社殿の造営を行なった、かの箭の落ちた所は景清矢中松(やたてのまつ)とて現に当社境内の旧跡として一と株の松樹に碑を建てて識している。かくて爾来富田城の鎮守として歴代城主の氏神としてその尊崇を受け、殊に尼子氏の如きは社領百貫の地を寄せ、神主竹矢氏に対しては他国より富田城下に入り来れる神子の司を命じたこともあった。
また毛利氏は尼子氏の定めた社領を安堵した上に神主竹矢氏の戦功を賞して種々待遇し、天正三年八月毛利元秋は遥に用材を石州に求めて造営を行い、次いで慶長四年吉川廣家またこれを修造し、且つ神田百石を寄せて神主、神宮寺以下の奉仕を定めた。併し毎年八月十五日放生会に執行した有名な神幸式の神輿が永祿八年戦捷の余勢に乘じた毛利軍のために渡御の途中に奪はれ仁多郡横田八幡宮の社頭に運ばれてより、二百年を経て、竹矢信之再びこれを迎帰りて其儀を再興したままでは、久しく打ち絶えていた程で、社頭も此後吉川氏出雲を退去して堀尾氏來るや同氏も元和三年上葺造営を行なったが、社領は単に神主領として三十石の地を寄進するに止つた。尤も其後検地を行った所、事実は三十三石九斗あつたけれど其侭に差置かれて京極氏の先例となり松平氏に至っては広瀬村に於て三十四石の社領となり、爾後貞享三年広瀬藩が設置された後も依然として同様の寄進を受けて来たのであつた。
而して造営に於ても同じく萬治元年の造管以來惣て藩費によつていたが、殊に安永二年八月には藩主松平近輝当社を以つてその祈願所と定むるに及び従来当社を大氏神としていた富田荘の山方里方十三ヶ村の社家も、是より祭礼毎に残無く参集して当社神主と共に藩主の武運長久、領内の静謐を祈願せしめらるる事となって、当社の位置は愈々確定されてきた、何者、元来当社の「神宮司」竹矢氏は天日鷲命の後田辺布禰より三十九代相続し、旧藩時代には日御碕、須佐、美保等の諸社と共に所謂一社一例の社格を有して富田荘十三ケ村の社家を支配し、四家の社人を従えて杵築佐陀の支配外に独立し、広瀬藩内に於ては御目見社家(当社、野城、貴布禰の三社)の上席として特に優越せる待遇を受け歴代叙位叙爵の家格を有していたものである。従って寛政二年三月舞馬の災は隨神門を除き、社頭一切を灰燼に帰せしめた時にも、特に藩議を以て社殿を再興して輪奐の美を尽くすに決し、吉川梁左衞門奉行として工匠を大阪に求め、禁裡御大工頭中井藤三郎の督下に大阪十八番組大工棟梁森川六右衞門豊武、加賀の名匠玉右衞門及び彫刻師、鉄師等工事に従い大工のみにても四千五百人役を費さしめた。乃ち藩船二艘に載せて彼の地より回漕し、宝政七年四月遂に当時建築の粋を集めた殿宇は新たに成るに至った。これ現社殿であって其後文政六年、天保十五年、明治十二年、同四十二年の上葺きを経たものである。かくて維新後にあっては明治五年三月郷社に列せられて第七十四五両区を管し、同十三年には逓減祿の下給あり、同四十年九月には、神饌幣帛料供進社に指定され、昭和二年九月九日県社に昇列せらるることとなった、蓋し本県下に於いて八幡宮としては此れの社格に列せられたものの鏑矢である。

−『平成祭データ』−



富田八幡宮 旧県社
能義郡広瀬町 山陰本線 安来駅より南一〇粁
祭神 誉田別尊 神功皇后 仁徳天皇
例祭 一〇月一五日 四月十五日
神紋 左三つ巴 本殿 流造 一二坪余
境内 九一四九坪 末社 八社
宝物 能面(宝生流)、大身槍(山中鹿之助所持)、白羽の矢(景清の使用せしもの)
氏子 四〇〇戸 崇敬者 三六二〇人
神事と芸能 神輿渡御祭 一〇月一五日
由緒沿革 欽明天皇の三一年創立、元は月山に 祀られてあったが、保元年間平氏の将悪七 兵衛景清が白羽の矢を放ち霊地を定め奉遷し た。爾来尼子、毛利、吉川、松平等富田城の 鎮守、祈願所、領内大氏神として崇敬篤く社 領寄進、社殿造営をした。明治五年郷社、昭 和二年県社に昇格す。

−『神社名鑑』−



【 富田八幡宮 】

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