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末廣稲荷神社
すえひろいなりじんじゃ
[山口旅行] 山口県下関市赤間町5−4  Zenrin Data Com Maps display !!


抱き稲


焔宝珠

旧無格社

御祭神
倉稲魂神

下関駅から東へ3Kmほどの赤間町に鎮座。
唐戸市場の北にあり、9号線から300mほど入った場所。
ホテルの裏側、路地の奥、階段上の狭い境内に朱の社殿がある。
参道には稲荷らしい朱の鳥居が数基並んでいる。

現在の住所は赤間町だが、昔は稲荷町と呼ばれた遊郭街。
一説には壇ノ浦で敗れた平家の女官たちが平家一門の菩提を弔い
遊女となったという。

幕末の志士たちが闊歩したと言われる繁華街にあり
大きな神社だったようだが、空襲によって焼失し
その後復興されたが、往時の様子は留めていない。

社伝によると大同四年の創祀。
赤間関(下関)最古の稲荷神社だそうだ。

正式社号は稲荷神社だが、末広稲荷として親しまれている様子。

かっては背後に稲荷山を控え
大きな桜並木があったという。
現在は住宅地や商店街、ホテルなどに姿を替えている。

神紋は、『山口県神社誌』には抱き稲紋と記されているが
社殿の幕には焔宝珠が染められている。


参道

参道

境内

参道

社殿

拝殿

社殿


参道案内にあった明治末期の写真、
今とは全然違う

末廣稲荷神社
御祭神倉稲魂神
例祭三月牛の日
由緒稲荷大明神。当社開基は人皇第五十一代平城天皇御宇
大同四年巳丑九月七日鎮座
  棟 札
奉造立稲荷社一間四面一宇
 右恙起者奉爲金輪聖王天長地久御願成就殊当
 将軍御息安穏国土静謐、当社大宮司子孫繁栄寿命
 長久(以下解読不明)大同四年丑九月吉祥日
 右の古文書が伝えている通り当社は平安時代初期の大同四年(西暦八〇九年) に祀られた下関最古の稲荷神社で古来商家の崇敬篤く赤間関の繁栄の 守護神として信仰されてきました。社の麓はもと稲荷町と言って日本の郭の 発祥地とも言われております。数々の妓楼、名岐(ママ)の名と共に稲荷町の名は全国に 鳴り響いたものです。井原西鶴、十返舎一九、頼山陽など古くから文人墨客が 訪れ幕末の志士、高杉晋作、伊藤博文、山縣有明、井上馨の夫人は 当地の出身であり全国からの参拝者も多くありました。
往時は背後に稲荷山を控え境内には末広さんの桜と称して大きな 桜並木があり信仰と憩いの場所でした。昭和二十年の空襲によりすべてを 焼失し稲荷町の面影はきえておわりました。其の後昭和二十八年に復興され ましたが近年社殿の打損がはげしくこの度たくさんの人々の奉賛によりまして 昭和六十一年十二月二十日に新社殿が朱も鮮やかに造営されました。

−境内案内板−



稲荷神社(末廣稲荷神社)
 平安時代の大同四年(西暦八〇九年)に倉稲魂神 (うかのみたまのかみ)を祀った、赤間最古の神社 で、古来商家の崇敬が篤く、赤間関の繁栄と守護神 として信仰されてきました。
 神社の麓はもと稲荷町といって、日本の郭の発 祥の地ともいわれております。下関は江戸時代初 めの頃から北前船(千石船)の寄港地となり、西の 浪速(大阪)と称されるほど繁栄していました。その 隆盛と共に当地も栄え、数々の妓楼、名妓の名と共 に稲荷町の名は全国に鳴り響いたものです。井原 西鶴・十返舎一九・頼山陽など、古くから文人墨客 が訪れていました。
 また、高杉晋作の愛人おうのは、裏町堺屋の芸妓で、 源氏名を「此の糸」、通称を「うの」といい、「三味線 師匠」という身でした。
 稲荷神社は、町の中心にあり、境内には末広稲荷 さんの桜と称して大きな桜並木がありました。 信仰と憩いの場でしたが、昭和二十年の空襲に よりすべてを焼失し、繁栄の面影はとどめていま せん。
 昭和二十八年に神社は復興されましたが、老朽 化したため、多くの方の奉賛により、昭和六十一年 十二月に、新社殿が朱色も鮮やかに造営され、再び 厚く信仰されています。

−参道案内板−


最終更新日:2013/10/09
【 末廣稲荷神社 (下関市) 】

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