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速谷神社
はやたにじんじゃ
広島県廿日市市上平良308−1  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ盛り亀甲
に花菱


八日足

『神紋』より
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式内社 安藝國佐伯郡 速谷神社 名神大 月次新嘗
旧國幣中社

御祭神
飽速玉男命

五烏神 (神社明細帳記載の異伝)
市岐島媛の妹あるいは伯母 『神祇志料』
多支都比咩乃命 『安藝國神名帳考』

広島県廿日市市、宮内串戸駅から北へ、約2Km。
可愛川沿いの北上する道路沿い、
山陽自動車道の南、上平良にある。

南面する鳥居をくぐり参道を進むと神門があり、
その奥が駐車場を兼ねた前庭になっており、
車祓いもここで行われる。

階段を登り、門をくぐると境内。
右手に社務所、正面に拝殿がある。
拝殿の両翼には神饌所・祭器所と思われる建物。
垣内に本殿があり、その両脇には岩木神社・稲荷神社が祀られている。

延喜式では、安芸一の大社で、
当時は宮島の厳島よりも格が上だった。
が、いつしか衰退し、社名も、速田明神、二宮速田明神となり、
厳島の摂社的存在になっていたが、
明治初年、社名を速谷神社と戻した。

荒木田経雅の『安藝國神名帳考』には、
「御神体自立の大石にて、多支都比咩乃命を祭るよし社伝なり。
先年御社焼亡の時、速に幕を張、侍人ばかり余炎をしめし、諸人に拝ましめず、
大石なれば此上に御殿をつくりこめ、御戸をひらかず、
社人も拝することなし。云々」とある。

境内社殿の前には、現在神門があるが、
昔の写真では、そこにも鳥居があったようだ。
参道両脇が車道になっており、車ではその神門の前まで。

この規模・社格の神社にしては、境内社が少ないように感じたが、
社殿は非常に美しく、青い空と緑の木々によく映える。

社号標に亀甲紋が刻まれており、
『官國幣社例祭之由来と神紋』にも同様の紋。
ただ丹羽基二著『神紋』には、当社の神紋は「八日足」となっている。


社号標

鳥居

参道

表神門

神門

社殿

本殿左・岩木神社

本殿

本殿右・稲荷神社

一、御祭神 飽速玉男命 一座
 当社の御祭神は天孫降臨の時附随の三十二神の内、 天湯津彦命五世の孫で、干七百有余年前即ち十三 代成務天皇の時に、安芸国造を賜い、広く国土を開 拓され国造り、村造りに御尽力され、農耕殖産の道 を進め交通の便を開き人々の生活の基礎を固めら れた神様です。

二、御神徳
 安芸国の総鎮守として仰ぎ 交通安全、殖産興業、 延命招福の守護神として、その霊験は真にあらたか です。

三、由緒
 御鎮座の年代は詳かではないが、国造の子孫及ぴ 国人達が御祭神の薨後恩徳を敬慕して奉斎した千 七百有余年前の古社です。
 嵯峨天皇弘仁二年七月名神に列し、清和天皇貞 観元年正月従五位上であった神階を従四位下に進 め貞観九年十月には従四位上に進められた。
 醍醐天皇延喜五年延喜式神名帳によれぱ当社 は名神大社に列せられ、毎年月次、祈年、新嘗の三 祭に神祇官の奉幣にあづかった。延喜式所載の安芸 国三社(速谷、厳島、多家)の内にありては、当社の みこの殊遇を受け、当時いかに朝廷の御崇敬にあつか ったかがわかります。
 朱雀天皇承平五年藤原純友の乱に朝廷より騒 乱平定を当社を含め十三社(安芸の国では当社と 厳島)に祈願せられ、間もなくその乱が鎮定したので 神階を正四位下に進められた。
 室町時代より当国桜尾城主であった藤原親実以 下歴代の城主、又府中の田所氏も深く当社を崇敬 した。次いで周防の大内氏、芸備の大守毛利・福島・ 浅野諸氏も当社を崇敬し神宝、社領を寄進し屢々 神殿の造営修覆を行った。
 大正十三年十一月国幣中社に列格、昭和二十一年 二月官制廃止により神社本庁所属の別表神社と なる。

−『速玉神社略記』−



【 速谷神社 (廿日市市) 】

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