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三宅神社
みやけじんじゃ
新潟県長岡市六日市町1775
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式内社 越後國古志郡 三宅神社二座 |
長岡市六日市町にあり、ここはわかりずらい場所。
六日町の集落からJR線路を越えると畑があり、その奥の丘の上。
寺があるので、その境内に見えるが、神社はそのそば。
階段を上がると鳥居があり、狭い境内がある。
拝殿の裏に本殿を覆った建物がくっついている。
式内社・三宅神社の論社、というより兄弟社。
皇室直轄の屯倉が置かれていたことから三宅という名となったという。
社伝によると、
孝元天皇の皇子・大彦命が
崇神天皇の勅命を受けて北陸を平定し、
越の国に来られた。
大彦命の御子・波多武日子命が新羅の天日桙命の姫・姫天美明命と結ばれ
当地の東にある三明山(金倉山)に鎮まり、
金倉山三岳(幡持山、幕山、美明山)に三殿を作った。
幡持山(上の嶺)には大彦命、幕山(中の嶺)には天日桙命、
美明山(下の嶺、北の嶺)には波多武日子命と姫天美明命が祀られた。
後世、大彦命は山麓の妙見に、天日桙命は中潟に、
波多武日子命と姫天美明命は大久保が岡(六日市)に遷座された。
よって、当地を含めて南北に、
妙見、中潟、六日市と3つの集落に三宅神社が鎮座している。
また、金倉山山頂には奥の院の石碑が立っているらしい。
参道階段と鳥居 | 鳥居扁額 | 鳥居から社殿 |
境内 |
拝殿の裏に本殿 | 境内の石祠 |
社殿 | 社殿 |
寛文五年(一六六五)八月、吉田家御尋に対し、
また同六年及び享保五年(一七二〇)五月、幕府寺社奉行所
より神社本末御尋の節、三宅大連当虎書上の「社伝」によ
れば、「越の三宅神社二座は、大彦命の御子波多武日子命
が新羅の天日桙命の姫天美明命と婚し、この国の三明山に
鎮り、三殿を造つた。三殿とは上の嶺には大彦命・中の嶺
には日桙命・波多武彦命と美明命は陰陽相殿に鎮まる。三
宮殿、二柱の神系により三宅神社二座とす。二神の御子三
宅真人武倉麿の館は嶺の中腹に御所平という古跡であり、
次に造替の所が今、御所塚といい、『神名久羅の御所』と
称した。上の嶺が今の幡持山、中の嶺が幕山、北の嶺が美
明山で、総名を神名倉(金蔵山)と唱う。後世上の嶺に座
す大彦命を麓に移し、後の妙見と称す。中嶺の日桙命を的
場ヶ崎平岡に遷し、後の中片(なかがた)と称す。下の嶺に
座す二神を大久保が岡に移し、姓を神瀧谷連と改む。宇都
宮大明神を称す」云々と記してゐる。
−『式内社調査報告』− |
【 三宅神社 (六日市町) 】