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荒船山神社 里宮
あらふねやまじんじゃ
長野県佐久市内山6387
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長野県佐久市にある。
長野新幹線・佐久平駅の南東11Kmほどの内山に鎮座。
佐久平駅から南下して小海線の滑津駅と中込駅の中間あたりで
254号線(富岡街道、コスモス街道)に入って東へ4Kmほど進み、
北へ入って集落の奥、車道脇に二基の石灯籠と赤い鳥居が建っている。
鳥居をくぐり100mほど進むと木々に囲まれた清浄な境内。
参道階段を上ると拝殿があり、拝殿の後方、階段の上に三扉の本殿があるが、
これは、正八幡宮の社殿。
荒船山神社は船を逆さにしたような荒船山(1423m)の西麓に鎮座し
荒船山頂の中央部の石祠奥宮に対する里宮にあたる。
長野と群馬の県境にある荒船山を祀る神社で
群馬県側にも別の里宮がある。
昔はもっと東、荒船山に近い場所にあったが
いつの頃かわからないが、『明治神社誌料』によると、
内山の東二里あまりで野火が発生し社殿を焼失。
大間(現在地)の無格社正八幡社境内の素盞鳴社を
遥拝所としたとある。
ということで、正八幡宮本殿右手にある入母屋造の社殿が
現在の荒船山神社里宮の社殿ということになる。
鳥居扁額には「荒船山神社」とあり、
まさに、 庇を貸して母屋を取られる状態になっている。
なお、当社の社号は正式に「荒船山神社」であり
当サイトでも荒船山神社と記すが、
荒船神社とも称される場合があり、地図などにも荒船神社とある。
鳥居 | 境内 |
正八幡宮拝殿 | 正八幡宮本殿 |
荒船山神社里宮境内 |
荒船山神社里宮 | 荒船山神社里宮 |
里宮から荒船山方向へ5Kmの場所、
相立に荒船山の遥拝殿がある。一の鳥居と呼ばれていたようで、
鳥居扁額には「正一位荒船山大明神」と記されている。
里宮からの遥拝殿への神幸が行われ、探湯(くがだち)神事と舞を
荒船山を拝して奉納されているらしい。
境内奥の社殿の後方には扉があって、荒船山を遥拝する造りになっており
磐座が祀られている。
荒船山神社遥拝殿境内 |
社殿 | 遥拝殿後方に磐座 |
遥拝殿後方に扉と磐座 |
遥拝殿から荒船山の姿が見えなかったので
254号線をさらに東へ進んでいくと、道路脇に小さな鳥居が建っていた。
カーナビの地図には「荒船神社拝殿」とあった。
荒船山神社と関連するのかどうかわからないが参拝してみた。
鳥居をくぐり、朽ちかけた狭い石段を上ると境内。
境内には拝殿だけがあり、拝殿奥に祠が祀られていた。
大間にある里宮は、以前は荒船山に近い東にあったそうだが
現在の遥拝殿の場所にあったのだろうか。
『明治神社誌料』には、「内山村の東二里餘」とあり
里宮の現在地から8Kmほど東と言えば、
この荒船神社の付近になるのだが、確認はしていない。
荒船神社に参拝後、さらに東へ進んでいったが
荒船山周辺は雲に覆われて、山容を見ることができず、
どこかで引き返そうかと考えていたら激しく雨が降ってきて、
群馬県側に出てしまった。
せっかくなので、荒船山を祀った群馬県側の里宮・荒船神社にも参拝した。
荒船神社 |
境内 | 社殿 |
後日、長野から群馬へ行って来たので、
遥拝殿付近から見える荒船山の写真を撮ってきた。
船を逆さにしたというより、平らなテーブルのような形だった。
遥拝殿から見た荒船山 |
創祀年代は不詳。
長野県側の当社・荒船山神社の祭神は建御名方命。
群馬側の荒船神社の祭神は経津主命。
『平成祭データ』には、建御名方命の妃・八坂斗賣命も祭神とあり、
『明治神社誌料』には、事代主命の名も載っているが、
『日本の神々』によると、事代主命は奥宮の祭神らしい。
大和朝廷側の経津主命と国つ神側の建御名方命との神戦いがあり
千曲川の水が七日間血に染まったとも伝えられ、
ここ荒船山で最終決戦をし、和議が成立したといい、
荒船山山中には「皇朝家古修武之地」と刻まれた石柱が立っているらしい。
『神道集』には、好美女というインドの王様の姫がいたが、
隣国に攻め滅ぼされ、船で我が国に逃れてきた。
笹岡郡(佐久郡)の笹岡山(荒船山)に来て
船を山頂にうつぶせにし、周囲に鉾を逆さに立てて住み
火の雨が降る(火山か)のを防ぐと誓ったという。
その後、諏訪明神と恋仲になったが下諏訪の妃神の嫉妬を畏れ
甘楽笹岡尾崎に社を立てて住まわせ、磐船を守るべしとして
荒船明神と称されるようになったという。
この荒船明神は、群馬県側の神であり、一説には貫前神であるらしく、
長野県側の荒船山大明神に妃神・八坂斗賣命が祀られているというのも面白い。
また、日本武尊が東夷征伐の時、碓日峠に来て水を求めたが得られず、
若丸君を荒船明神に遣し、やっと荒船本沢の清水を得たといい、
祈雨の御神水として崇敬されたようだ。
荒船山神社由緒 荒船山神社(あらふねやまじんじゃ)の御祭神は、信濃国一の宮の諏訪明神である建御名方命(大国主命の御子神)です。 [信濃地名考上編倭名抄。諏訪郡]に「按ニ諏訪郡ハ天平年中(729−748)普省(中)ニ定メタル地区ナリ其ノサキ佐久小県筑摩伊奈ノ四郡ニワタッテ州羽ノ域最モ広シト思ワル、或曰イト上津代(大昔)ハ諏訪神社佐久郡ニ在トゾ、造郡(郡が定まった頃)ノ以前サモアリケルヤ、世伝ニ坂上田村麿悪賊退治ノ願ニヨリテ諏訪社ヲ建ラルト云々。」[国史]ニ桓武帝延暦二十年(801)征夷将軍坂上田村麿征東夷」とみえます。 要するに建御名方命諏訪神本社は、田村麿が諏訪社創建以前は佐久郡にあったとしています。 [下仁田町誌]によりますと「建御名方命と経津主命との戦いは、最終的には荒船山が倭朝軍と国神軍との和議成立の場であったとして、今も荒船山中央部に「皇朝古修武之地」と高さ約二・八メ−トルの石柱碑が建立されています。 [日本名蹟図誌]に「経津主命(大和朝廷方)と建御名方命(国津神方)と神戦あり千曲川の水が七日間血に染まった。」とみえ、この図誌からも佐久は激戦地だったと推定されます。 [神道集延久三年(1071)安居院著]の諏訪明神の章を訳文してみますと次のようです。「好美女という印度の王様の第三姫がおりました。父は隣国の王に攻め亡ぼされ姫も敵王に囚われ妃とされそうになり、逃れて船で我国に来て笹岡郡(さこぐん=佐久郡)笹岡山(さこやま=荒船山)に来て船を山の峰にうつぶせにし、その周囲に鉾(柵か)をさか立てて住み、火の雨降らすを防ぐ(巫)と誓って笹岡山を守っていました。安閑天皇の御代(535−536)諏訪神が姥のいる日光男山に通ううち磐船を守る好美女と良い仲になり互に相見上りつつ夫婦となり給えば、諏訪神の妃の下諏訪の神腹立てて嫉妬の由聞こえて、諏訪神はやむなく甘楽(上州)笹岡尾崎に社を建てて住み、好美女一人この磐船守るべしとして笹岡山に留め、今の世に荒船明神と申す即ちこれなり。」(本文和漢混合文) 明治三十六年内務省神社局差出文書控によりますと、当社荒船山神社は近郷十二か村と入会の郷社で、徳川時代中期には正一位大明神でした。諏訪明神は信濃一の宮でありこの御祭神建御名方命と荒船明神は一身同体の神であり、雨乞すれば神徳の験かならずあり、農家の経営に偉功を現す神様です。 景行天皇四十年(140)、信州と越の賊皇室に随ず、日本武命甲斐の北武蔵、上野と転戦し信州界碓日(うすい)坂に来て山高く谷深く人は杖に倚り馬は頓き日本武命も渇し水を求めても無く、若丸君を荒船明神に遣し、やっと荒船本沢の清水を得て命に差し上げ、命も甘き水と嬉ばれ若丸君を再度荒船明神に遣して感謝され、この旧蹟今も一杯水と称してあり、祈雨の御神水で必ず験無しということなし。近郷の村々より請願する者多く、この神徳遠くへも聴えて、延徳元年(1489)足利東山将軍義政公深く当社を崇敬し、葵の御紋金幣を納められ、祭典御神幸の際に仮殿(大間、おおま)より一の鳥居(相立、あいだて)まで御輿の前に真榊を立て、木綿(御幣)に御紋を附し神前に供えるを例とし、四月二十八日と九月二十日に御神幸を実施していました。明治元年新政府となり禁止され、以後この御紋は用いず、明治三年焼失してしまいました。足利義政とは室町幕府将軍で、一四八三年京都の東山に山荘を建て住んでいましたが、死後遺命によって銀閣寺とした将軍で、下賀茂神社の葵祭りに大いに力を入れていました。この御祭神は賀茂別雷命母、玉依姫外祖賀茂建角身命を祀り、神武天皇東征の際に八咫烏となり天皇を案内導き、又勅命により兄磯、弟磯に降参するよう勧めた古事に例ってか、荒船神に捧げたと思われます。 [古図荒船山]に「草も木もみな緑なる深ぜりには荒船の宮白く見ゆらん輔相」この輔相(すけみ)という公は摂政藤原良房(貞観十四年死)の弟大蔵大輔當興の子で藤原輔相(治部少輔)のことです。 内山(うちやま)大間の荒船山神社神職である小間澤家墓地より掘り出された墓碑に「小間兵部助藤原信安、天長二歳六月」と刻字が読めます。治部少輔の輔相と行政面で何か関係があると思われます。 [武田信玄墨付]朱印<信虎>・朱印<虎の絵>建御名方命。 当社神事祭礼の際社中に於て狼藉する者があらばすぐにつかまえて時の将軍に訴え出なさい。(本文和漢混合文の訳)永禄二年に信濃大守となっている武田信玄も荒船明神の祭典(註、当日一般は内山へ馬は入れてはならぬ定)の狼藉は取締りが出来なかったのです。[古図平賀成頼勢力図朱印領]「五拾貫文・神主大間兵庫助,八幡宮神領,荒船大明神両所」(神殿は何れも大間にあります)荒船山神社は創建年代は明らかではありませんが、吉田家より正一位大明神を裁許され、皇室に関係していたお宮だと推定され、今も御神幸並に相立の遥拝殿にて探湯(くがだち)神事と舞を荒船山を拝して奉納しています。 −『平成祭データ』− |