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古八幡神社
ふるはちまんじんじゃ
山梨県甲府市古府中町1534
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山梨県甲府市にある。
甲府駅の北2.5Kmほどの古府中町に鎮座。
31号線(武田通り)を北上し、武田神社に突き当たって西へ。
相川小学校の南西隅にあり、社前に武田神社の駐車場がある。
階段を上ると、峰本自治会館の建物があるが、その裏手に当社がある。
裏手といっても自治会館と離れておらず、自治会館が通常の神社の拝殿のような位置関係。
裏に回ると、石祠や事比羅大神と刻まれた石柱が立っており、自治会館脇から入る扉がある。
扉を開けて中に入ると、木造の祠が一つ、東向きに祀られている。
資料などによると、当社の正式名は「八幡神社」。通称は「古八幡神社」。
自治会館の案内板では鎮座地名を含めて「峰本古八幡神社」と記されていた。
もとは甲斐国総社として崇敬された神社。
甲斐源氏の始祖新羅三郎義光より四代石和五郎武田信光が、
承久年中、鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を石和の館に勧請。
武田家の氏神として国衞八幡宮(今石和若宮八幡)と称へ尊崇。
永正十六年、武田信虎躑躅ヶ崎に築城の際、
躑躅ヶ崎館(現武田神社)の西方の現社地に遷座された。
その後、浅野長政天正十二年、甲府城を築城の際
文禄四年、宮前の地に遷座されたのが現在の八幡神社。
古社地には、当社・古八幡神社が当地の氏神として祀られてきたが、
相川小学校の開校や体育館の建設などで、社地が数度移転したようだ。
室内の幕に武田菱が染められていた。
当社の神紋かどうかは未確認だが、武田氏の氏神として崇敬された社なので、
武田氏家紋を使用しているのかもしれない。
峰本自治会館 | その裏にある |
中に祠 |
祠 | 外に石祠と事比羅大神 |
峰本古八幡神社の由来
ここ峰本自治会館奥、棟続きのお社に祀る
「峰本古八幡神社」は、私たちの産土神・鎮守
の神であります。この神社は、石和五郎信光が鎌倉の鶴が岡 八幡宮を石和の館に勧請して国衙八幡宮と称 したのが始まりといわれています。永正十六年 (一五一九年)武田信虎が府をつつじが崎に 築く時、館の西側に移され府中八幡と称され ました。(相川小学校校舎の南西部) 武田氏滅亡後、甲府城築城の際、お城鎮守の 八幡宮として今の宮前町に移されたのです。 当時の村人は、旧社地に(古府中村峰本)に社 を祀り古八幡神社と敬称し、氏神として尊崇 してきました。明治十六年に相川小学校を開校 するに当たり、八幡様は校舎の西側に移され、 昭和三十一年には相川小学校体育館の建設が 社のある「松の間」と称した敷地に決定し、 八幡様は体育館南側に遷座することになり ました。その後、屋内体育館の老朽増改築 により神社の境内の一部を市へ提供し昭和六十年 (一九八五年)に神社の移設と自治会館の地鎮祭 が行われました。 神社の祭は毎年十月に行われます。明るい 平和は峰本を築くため、神徳にあやかりながら お互いの連帯感を深め自治会の発展に寄与 いたしましょう。(峰本自治会誌による) −境内説明文− 八幡神社 ご由緒書 当神社のご由緒は古文書によると第104代後柏原天皇の御代永正16年武田信虎が府を石和の館から躑躅ヶ崎に移転した際、館の西方に社地をえて八幡神社を造営し、御祭神誉田別神、媛神、息長帯姫神の3神を祀って武田家の氏神として崇敬し国家安泰、武運長久、五穀豊穣を祈願した。 江戸時代文録年間浅野長政が甲府城を築城した時、府中の八幡山の南麓に城中鎮護の神として移転した。爾后、当時の峯本組の住民が旧社地に同神を祀って、古八幡と敬称し村中鎮護氏神として尊崇し家内安全、五穀豊穣を祈り氏子の心のより処とした。 明治4年社格制定の際、村社に列した。 昭和21年2月宗教法人となり今日に至る。 −『平成祭データ』− |
【 古八幡神社 (甲府市) 】