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手長神社
てながじんじゃ
長野県諏訪市茶臼山9556
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旧諏訪大社上社末社 |
諏訪湖の東、茶臼山の中腹にあり、
当社と諏訪湖の、ちょうど中間に、上諏訪駅がある。
20号線にある諏訪郵便局横の階段を登ると、
上諏訪中学校があり、その横に鎮座。
諏訪大社上社の摂社で、本宮の北4K程にあるが、
社殿は南西向き、南に上社、西に諏訪湖だが、
どちらにも向いていないのは面白い。
旧高島藩の高島城北東に位置しており、
高島藩総鎮守であるから、そちらの方向を向いているのだろうか。
祭神の手摩乳神は、奇稲田姫神の母神で、手名椎命とも書かれ、
足摩乳神と夫婦神である。
八俣大蛇による、娘(奇稲田姫神)の危機を素盞嗚尊に救われた。
素盞嗚尊の子(あるいは子孫)が、大己貴命であり、
上社祭神、建御名方命の祖にあたる。
諏訪地方では、諏訪明神(建御名方命)の国土経営を手助けした神。
当社にも御柱があり、式年御柱祭が行われる。
階段を登って境内に入るところに「延命の杉」という巨木がある。
梢を仰いで、三度深く息をすれば、憂いがはれ、長寿になるらしい。
本殿が拝殿に隠れて撮影できないが、拝殿前に、旧本殿が鎮座。
境内の末社にも、それぞれ四本の御柱が立っている。
社号標 | 鳥居 | 参道階段 |
境内 | 延命の杉を仰ぐ |
拝殿 |
拝殿 | 拝殿 |
旧本殿(弥栄神社) | 松尾大明神、龍王大明神 |
一之御柱 | 二之御柱 | 三之御柱 | 四之御柱 |
拝殿前の末社にも御柱 |
御祭神 手摩乳命(てなづちのみこと) 例祭 九月十五日 由緒 手長神社は諏訪湖を望む景勝地、茶臼山の杜に鎮まる下桑原の産土神で、古くから家 庭円満、子育ての神として崇敬され〃手長さま〃と親しまれ信仰されています。 御鎮座の起源は詳らかでありませんが、御祭神手摩乳命については「古事記」のなかに、櫛名田比売(くしなだひめ)の親神であり、建御名方命の祖先であるとみえています。 須佐之男命は八俣の大蛇を退治され、その結果神剱「草薙剱」の出現をみるとともに、櫛名田 比売を助けられて后の神とされました。櫛名田比売の「なだ」は稲の田、水田を意味していると いわれ、その比売神を手なで足なでして養育されたのが足摩乳命と手摩乳命です。 平安時代の初めに書かれた「和名類聚抄」に、当時の日本全国の郷村の名前が載っています。 その本によると信州は十郡からなり、そのうちの諏訪郡は七郷に分かれ、なかでも現在の上諏訪 (但し大和を除く)と四賀及ぴ茅野市の一部あた りを桑原郷と称していました。いつの頃か桑原郷 は上桑原と下桑原に分かれ、上桑原に足長神社、 下桑原に手長神社が祀られるようになり今日に至 っています。 古来より武門領主や一般庶民の信仰が篤く、殊 に天正十九年(一五九一)、諏訪湖中に高島の浮 城が築かれてより下桑原は城下町として栄え、ま た、神社が城の艮に位置するところから城中の守 り神、城外総家中の鎮護神として藩主をはじめ格 別の崇敬をあつめました。 明治以前は諏訪神社上社の末社で、茅野外記太 夫により祭祀が行なわれていました。なかでも古 式祭八朔相撲は手長の辻といわれ、諏訪上社の十 五夜相撲、田沢稲荷の二百十日相撲とともに諏訪 の三辻に数えられ、遠方より力士が集まり、江戸 時代には藩士の桟敷が設けられるなどして賑わっ たと伝えられています。 明治五年村社、同三十二年郷社、大正十三年県社、昭和四十三年別表神社。 境内・建物拝殿は立川流初代棟梁、立川和四郎富棟により天明八年(一七八八)に建てられ たもので、入母屋造り銅板葺き正面は軒唐破風、木鼻は唐獅子、海老虹梁は上り龍と下り龍を配 した重壮な建物です。境内社の弥栄神社は旧本殿を移したもので、宝永六年(一七○九)大隅流 大工伊藤庄左衛門によって建てられました。(二殿とも諏訪市有形文化財) また、社叢手長の森は市街地での自然保護地域であり、諏訪市天然記念物に指定されています。 −由緒書きより− |
【 手長神社 】