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圓田神社
えんたじんじゃ
新潟県上越市柿崎区岩手1089
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新潟県上越市にある。
柿崎駅から25号線にそって南下、
米山寺あたりの道路沿いに鎮座。
道路脇に「式内圓田神社」の社号石碑がある。
祭神や神紋をみると、八幡宮であったことがわかる。
社伝によると、天武天皇の御代の勧請。
祭神・大己貴神が、国土平定のため高志に来られた時、
当地・円田沖の龍ケ峰に船を繋ぎ、創建したという。
ゆえに、往古は龍ケ峰という場所に鎮座していたらしいのだが、
「龍ケ峰」ってどこだろう。
式内社・圓田神社を称しており、
昔は八幡宮と称していたが、明治十六年より圓田神社と復称した。
境内入口 | 階段上の鳥居 |
社殿 |
社殿 | 境内社の石祠 |
式内の社号標 | 拝殿 | 本殿 |
境内 |
御祭神 国常立尊、大己貴神、誉田別尊、大山咋神 第四十代天武天皇(六七六年)己末八月十五日、勧請(社紀文書)。口碑によれば、神社の在りし所龍ケ峰という。大己貴神、国土平定のため高志に来たり給う時、この円田沖に船を入れ龍ケ峰に船を繋ぎ上り、この峰に一祠を立つこれが神社の初めなり。 天武天皇十三年(六八六年)己酉、地方巡察便、中臣朝臣清麿、当社に賽し、神威あらたかと神殿を建立す。この後、巡察便来たる度、参拝し幣帛を献ずるを例とせり。 桓武天皇延歴十六年(七九四年)、坂上田村麿、奥羽征討の際宿陣し、戦勝を祈願し、祈願文、矢二筋を奉納せり。(記録、献納品は天明火災に焼失)。 醍醐天皇延喜発亥三年(九〇三年)、圓田神社と改称す。延喜神明帳に記載あり。(当社所蔵)。 天文十六年(一五四七年)、春日山城主長尾景虎、兄弟争の際、当社に参拝し戦勝祈願文を奉納、後、長尾晴景を亡ぼし時、謝文、宝剣、大太刀を奉納す。(天明火災に焼失)その大太刀を模して当社に納めあり。 天明元年(一七八六年)七月二十五日、火災。社殿、社庫焼失せり。 天明五年(一七八六年)四月、社殿建立。 嘉永八年(一八五五年)五月、現社殿建立。 昭和十九年(一九四四年)、幣殿建立。 −『平成祭データ』− 『特撰神名牒』に「今按同郡岩手村八幡宮を当 社なりと云は たしかなる證あるにあらねば とらず」と、 『越後國式内社考』に「圓田神社在丸田村名立谷ノ内、二宮能登、 一説岩手」と、『越後頸城郡誌稿』に「又米山ノ麓、岩手 村ニ圓田神社ト称スルアリト雖モ、此社タル八幡宮ノ處、 当郡ニ式内圓田神社座シテ、此真跡ヲ判然セサル故、右古 跡ノ顕ルルマテ、仮ニ圓田神社ト称スル旨ヲ伝タリ、真跡 確証ナキニ強テ正シトモ云ヒカタシ」とある。明治十六年 の『神社明細帳』に「創立年月・由緒は不詳であるが、五 十余ヶ村の総社として信仰されてきた。明治六年、第七大 区八小区の村社に列す。」とある。 −『式内社調査報告』− |
【 円田神社 圓田神社 (柿崎区) 】