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御嶽神社 里社若宮
おんたけじんじゃさとしゃ わかみや
長野県木曽郡木曽町三岳6189
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長野県の木曽町にある。
中央本線の木曽福島駅から西へ12Kmほどの三岳三つ屋に鎮座。
木曽福島駅から19号線を南下し、木曽川と王滝川が合流するあたりで西へ。
王滝川に沿って20号線を進むと、木曽町役場の三岳支所があり、
さらに700mほど進むと、「御嶽神社」と刻まれた社号標の立つ当社の参道入口。
そこから車道を上って行くと、当社境内の入口に到着する。
ただし、その入口は裏口になるようで、境内に入ると社殿の後方。
正面から参拝したかったので、社殿の横を通過して東側の参道を少し戻り参拝開始。
11月の晩秋の早朝、桧の林の中を歩くと、昇ったばかりの朝日が差し込んで気持ち良い。
当地はブッポウソウの繁殖地らしいので、上を眺めながら歩くが見当たらず。
社殿の前に到着。大きな拝殿のような神楽殿のような社殿の後方に、
拝殿があり、「御嶽神社」の扁額が掲げられている。
拝殿の後方には幣殿と流造の本殿。
境内の左手に祖霊殿があり、右手に土俵。
本殿の左手には境内社の豊受社、長田社、諏訪社、
長野県に引っ越してきた頃から、いつかは御嶽山に登ってみたいと考えていたが、
いつになるかわからないので、まず里宮をと、参拝してみた。
とにかく広く清々しい林の中の境内で、とても気持ちの良い神社だった。
当社は御嶽山(3067m)を奉拝する里宮の一つ。
御嶽山への一般的な登山口は、黒沢口と王滝口にあり、
黒沢口側では、御嶽山頂上剣ケ峰の頂上奥社と里社本社、
そして里社若宮である当社の三社を総称して御嶽神社(奥里三社)と呼び、
王滝口側では、王滝口頂上本社と里宮の二社。
だが、他にも別殿や遥拝所など、御嶽山全体に多くの関係社や史跡が点在している。
黒沢口御嶽神社の由緒によると創祀は光仁天皇宝亀五年(774)。
信濃国内に悪疫が流行した際、信濃守石川朝臣望足が御嶽に登山し、
大己貴命、少彦名命の二神を祀り、疫病除祓を祈ったのが起源。
翌年の宝亀六年(775)に黒沢口に里社本社が造営されたようだが、
当社、里社若宮の創祀年代は不詳。
至徳二年(1358)、木曽家親(家信)によって再建された。
また、一説には、奥社、里社本社、里社若宮の三所とも延長年間(923−931)の造営とも。
古くは諏訪大社の神職が年番で奉仕していたが、
徳治二年(1307)、木曽義信が諏訪大社下社の武居祝の次男、宮内少輔重晴を招き、
以来、その子孫により奉祀されているようだ。
中世以前は修験の道場として栄えたが、その後、修験道と民間信仰が結びつき、
山麓周辺に住む「道者」と称する人々が、百日の厳しい精進潔斎ののち
集団で登拝する風習が行われるようになった。
その後、天明二年(1782)、尾張の行者、覚明により黒沢口が、
寛政四年(1792)、江戸の行者、普寛により王滝口が一般に開放され
軽精進により登拝が可能になったことから、御嶽信仰が全国に広まり、
現在、全国の信者は200万人とも言われている。
明治維新前は「御嶽山大権現」と称しており、里社本社は「本社大菩薩」、里社若宮は「桶安気大菩薩」。
ちなみに王滝口の方は「御嶽山蔵王大権現」、里宮は「岩戸権現」だったらしい。
参道入口 | 境内入口 |
境内 |
社殿 | 社殿 |
本殿・幣殿 |
祖霊殿 | 豊受社、長田社、諏訪社 |
当社境内から林の中を200m東へ進むと若宮居住遺跡がある。
昭和二十九年に発掘、昭和三十一年に復元された木曽谷唯一の古代住居跡。
縄文時代のものらしい。
境内から200m東 | 林の中を歩く |
若宮住居跡 |
御嶽神社里宮(若宮) 桧の大経木に囲まれたこの社殿は至徳二年 (一三五八)に木曽家親(家信)によって再建さ れたもので家信が奉納した鰐口が現存して いる。 また永禄八年(一五六五)木曽義昌が奉納した 三十六歌仙絵馬額が拝殿に掲げられていたが、 盗難により三十二枚が現存し社宝となってい る。この神社は創建年代不明であるが祭神 は、大己貴彦と少彦名命である。 社殿が狭いため明治十年(一八七七)関東巴 講により改築されたものである。 −社頭由緒書− 御嶽神社由緒 光仁天皇宝亀5年(774年)信濃国内に悪疫が流行した際、 信濃守石川朝臣望足が御嶽に登山し、大己貴命 少彦名命、二神を祀り、 疫病除祓を祈ったのが始まりとされる。時に宝亀5年6月13日にして、 以後当社の例祭が6月12、13日(新暦7月18、19日)と定められた。 −『平成祭データ』御嶽神社里社本社の由緒より− |