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間山豊富神社
まやまとよとみじんじゃ
長野県中野市大字間山字宮上262
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長野県中野市にある。
長野電鉄信州中野駅の南4Kmほどの間山に鎮座。
信州中野駅から東へ進み54号線に入って3Kmほど南下し、
西へ入った場所に境内の杜がある。
境内入口は西向き。
鳥居の左手に巨木。右手に「郷社間山豊富神社」と刻まれた社号標が立っている。
鳥居をくぐり境内に入ると右手に手水舎。左手に社務所を兼ねた公民館。
正面に神明造の拝殿があり、拝殿の後方に一段高く入母屋造の本殿らしき建物があるが、
壁が透垣状になっており、これはたぶん本殿の覆屋なのだろう。
参拝は11月末。社殿内では盛装した人々が集まっており
(『平成祭データ』によると新嘗祭らしい)、
邪魔にならないように参拝し撮影していたので本殿は確認していない。
社伝によると、元慶二年(878)藤原保則による奥羽の賊徒追討の際、
その部下・藤原明長が当地に来たりて病に伏した。
息子の藤原明豊が父の回復を伊勢神宮に祈ったところ数日で平癒。
即刻、明豊は神宮に報賛し、神鏡を受けて御霊代とし、
元慶六年(882)三月、祠を建ててこれを祀ったのが当社の起源。
永禄年中(1558〜1570)、御館城主高梨摂津守政頼の臣、
須田対馬と伊藤丹後が川中島の役の際に当社に戦勝を祈願し
勝利を得て社領百貫文を寄進。
文政四年(1821)現在の地に遷座されたが、その頃、御霊代の神鏡紛失したという。
日野村の産土神として、明治六年四月郷社に列した。
社殿には三つ巴紋を染めた幕がかけられていた。
北側から社域 | 西向きの鳥居と社号標 |
境内 |
社殿 | 幟の重り、白猿か? |
拝殿 | 本殿 |
【 間山豊富神社 (中野市) 】