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阿禮神社
あれいじんじゃ
長野県塩尻市塩尻町大宮6
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式内社 信濃國筑摩郡 阿禮神社 |
塩尻町。153号線から少し北へ路地を入る。
境内は広く、木々も聳え、社殿も立派だ。
東へ2Kmほど、20号線沿いに奥宮(奥社)があり、
当社は前宮(前社)にあたる。
創祀年代は不詳。
式内社・阿禮神社に比定されている古社。
社伝によると、素盞嗚命が出雲国簸川上の大蛇を平げて後、
科野国塩川上の荒彦山に化現し、悪鬼を討ち平げたという。
その大稜威を尊び仰ぎ奉ったのが当社の起源。
荒彦山は、今の東山にある五百砥山(五百渡山)であるという。
文徳天皇仁寿二年(852)、現社地に遷座し、
大己貴命と誉田別命を合祀した。
社名の阿禮は、「アレ」であり村落を意味するものらしい。
村の神ということかな。とにかく古い言葉のようだ。
境内に「阿禮大神」を祀った石碑がある。
拝殿前に、古い狛犬が復興されていたが、風化した表情が面白い。
拝殿後方の本殿周りにも木々が茂り、うまく撮影できなかった。
参道入口 | 御神木と社号標 | 参道 |
鳥居 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
復興された狛犬 | 拝殿扁額 | 狛犬 |
阿禮大神 | 境内社 |
創建の年月は不詳なるも延喜式神名帳に登載された古社である。五百渡山に鎮座が阿禮神社の発祥で此れが何時の時代か明かではないが、其後大同二年(八〇七)坂上田村麻呂将軍が明神平(現奥社所在地)に奉遷、更に仁寿二年(八五二)現在地(大字塩尻町六番地)に前宮を造営して遷座した。此の時合殿に誉田別尊・大己貴命を奉祀した。
−『平成祭データ』− 其の創立年代は『信府統記』(松本藩主水野忠恒の 命に依り編せるものにして享保七年に成る)巻十九所収の「松 本領諸社記」及び口碑の傅へる所によれば初め素盞嗚命出 雲簸川上の大蛇を平げて後、科野國鹽川上の荒彦山に化現 し悪鬼を討ち平げてより、其の大稜威を尊び仰ぎ奉つたと いふ。荒彦山は今の五百砥山にして、鹽川は其の下を流れ る四尾澤川なり。大同二年(八○七)坂上田村磨、勅命を奉 じ安曇郡有明山の兇賊を討ちし時戰勝を祈り、平定の後奉 賽の爲社殿を今の本村明神平に建てゝ奉遷し、且つ神田を 寄進。奥社と云ふは是である。文徳天皇仁壽元年(八五一) 秋九月悪疫天下に流行の折、宮司旨を奉じて祈祷し悪疫忽 ちに止んだことにより、遠近上下愈々深く崇敬し、翌二年今 の地に遷座。又同時に應神天皇即ち誉田別尊をも合祀し、 俗に「皇宮」とも稱した。今「大宮」と言ふのは其の轉訛 なり。大己貴命を合祀したのも此の時と思はれる。治承年 間(一一七七−八一)木曾義仲深く尊信、祈願所と定め且つ 治承四年(一一八○)木曾柏原の城中に分靈社を建てゝ奉 斎したが、義仲没落するに及び遺臣今井、高梨等社を上野 國に奉遷した。今の群馬縣勢多郡北橘村に鎮座の縣社木曾 三社神社である。 −『式内社調査報告』− |
【 阿礼神社 阿禮神社 】