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頤氣神社
いけじんじゃ
長野県長野市小島田町頤気沖837
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長野県長野市にある。
長野駅の南、直線で4Kmほどの小島田町に鎮座。
犀川を渡って南下し、18号線(篠ノ井バイパス)の
「いき」交差点から少し千曲川方向に入った場所。
千曲川の堤防道路の脇に境内がある。
大正以前は、この堤防も社地の一部だったようだ。
境内入口は南側。入口の前に三基の立石があり、
「庚申」「二十三夜」「道祖神」と刻まれている。
入口右手には、「式内頤氣神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると、参道の右手に公民館、左手は社務所だろうか。
境内は縦に長く、北側奥に社殿がある。
木々は少しまだらな印象だが淋しい感じではない。
でも、昔はもっと鬱蒼として昼なお暗い境内だったのでは、
などと想像しながらの参拝。
天気が良すぎて日射しが強い秋の午後。
拝殿は瓦葺で切妻造・平入り形式。
屋根には瓦の鯱が乗っている。
拝殿の後方の本殿は、瓦葺の覆屋の中にあるようで確認できず。
資料によると小ぶりだけど、総欅造りの重垂木杮葺。
立川流の組物彫刻を施された華麗なものらしい。残念。
創祀年代は不詳。
更級郡池郷鎮座の式内社・頤氣神社の論社の一つ。
祭神は荒田別命。通称を頤氣神というらしい。
崇神天皇の御子・豊城入彦命の四世孫にあたる人物。
伝承によると、大化三年(647)、
蝦夷地への前進基地として越後渟足柵磐舟柵を設けた頃、
千曲川沿いの川中島平池郷を開拓し、人々の産業を助けた神。
永禄年間(1561)の川中島合戦の際に、当社周辺は戦場と化し
社殿等を焼失したため、近傍に仮宮を建て、
後年、古社地に再建された。
だが、寛保二年(1742)、千曲川の大洪水により流出。
常然寺境内の天神宮を仮宮として祀り、
寛政元年(1789)、再度、古社地に再建。
しかし、享和二年(1802)、大雨による大洪水によって流出。
文政八年(1825)に再建されたのが現在の本殿。
大河のそばの古社は、洪水との闘いなのだ。
拝殿屋根瓦には巴紋が付けられていたが、
本殿覆屋には、梶紋がいくつか付いていた。
諏訪神も祀った神社なので、梶紋が当社の神紋だと思うが
確証があるわけではない。
社頭 |
社前の庚申・二十三夜・道祖神 | 鳥居 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
社殿 |
本殿左の伊勢社 | 本殿右の白髪社 |