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藤戸社
ふじとしゃ
新潟県新発田市東宮内藤戸山441
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新潟県新発田市にある。
JR羽越本線・加治駅の南東3Km、
加治川の北にある東宮内に鎮座。
佐々木加地氏の本城である、
加地城のあった要害山に続く西の山の上。
車道から田の農道の奥、山の麓にかすかに赤い鳥居が見える。
参拝は八月中旬の休日。青々とした農村風景。
参道(農道)を北へ進むと、立派な両部鳥居があるが、
鳥居の脇に一台の車が止まっていたので、
なるべく車が入らないように撮影開始。
入口周囲は雑草の叢。
ただし、雑草に覆われているのは鳥居の足元だけで、
奥に続く参道石段は、比較的綺麗だった。
前日に降った雨のせいか、石段は湿っており、
滑らないように注意して登る。
長い石段を登ると、途中にも赤い鳥居が建ち、
参道は暗いが、開けた境内は明るかった。
境内中央に大きな拝殿。
後方石段の上に、流造の小さな本殿がある。
古くは加治明神と称した神社。
社伝によると、創祀は文治五年(1189)。
鎌倉時代、佐々木盛綱が加治荘の地頭職となり、
要害山に築城した際に、祖先を祀ったという。
式内社・美久理神社の論社の一つであるが、
社伝が正しければ、平安時代に存在していた式内社ではない。
ただし、菅與吉の『菅谿史跡』において当社を美久理神社に比定しており、
『神社覈禄』にも、沼垂郡加治郷白山権現(当社のこと)としている。
思うに、佐々木盛綱が加治城を築城する際に、
当地に存在した式内社・美久理神社を、城郭の一角に組み込み
藤戸社とした可能性があるのかもしれない。
当社を建立した佐々木盛綱は、源平の藤戸合戦で名を上げた武将。
藤戸社の社号は、その備前の地名(倉敷市藤戸町)から取られたらしい。
藤戸合戦とは、寿永三年(1184)、
倉敷沖の藤戸(児島)に陣を構える平家を攻めあぐねていた源氏にあって、
海峡に浅瀬の存在を知った佐々木盛綱が、騎馬で海峡を渡り、
先陣をきって、平家を屋島まで敗走させた戦い。
能の演目(『藤戸』)にもなっている有名な話らしい。
僕は、知らなかった。
社殿には、四つ目の目結紋が付けられていた。
佐々木加地氏が四つ目結なので、その影響だと思う
社域、右の切れている山が要害山 |
参道 | 鳥居 | 参道 |
参道 | 参道 |
境内 |
本殿 | 境内社、石動社か? |
加地城 (佐々木加地氏本城)
加治城は鎌倉時代初頭、越後守護職兼加治荘地頭
職、佐々木三郎盛綱により築城され以来室町時代
初めに至るまで、越後守護代、伊予(愛媛)備前
(岡山)守護職佐々木加治氏の本城として隆盛を
誇りましたが、足利将軍家の一族、関東上杉氏の
越後入封以来、衰微の一途をたどりました戦国時代上杉謙信の姉が加治春綱の室となり 再び隆昌の途についた矢先、上杉謙信公の急死に 遭遇、天正八年暮一族五十公野氏の奇襲に より落城 その後再建、天正十五年(一五八七)九月七日 (旧暦)上杉景勝の攻撃を受け遂に落城 慶長二年(一五九七)上杉景勝の命により 加治氏は断絶 加治城は廃城となりました
−社頭案内板− |