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松浜稲荷神社
まつはまいなりじんじゃ
新潟県新潟市北区松浜本町3−5
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式内社 越後國沼垂郡 市川神社 |
新潟市松浜町にある。
新潟空港から東へ。阿賀野川河口部にかかる松浜橋を渡って、
少し上った所に南向きに鎮座している。
参道には赤い鳥居があり、
注連縄が一文字で変わった形。
境内では子供たちが遊んでおり、
カメラを構えているこちらを、興味深げに観察している様子。
創祀年代は不詳。
式内・市川神社の論社である。
境内の御神木の説明板に、
享保16年(1731)稲荷神社遷宮という記述があった。
『式内社調査報告』では、天保年中(1830〜44)に、
加治川付近から移したものとある。
当社が式内社・市川神社とされる理由は、
古鎮座地の加治川は、上古、稜威速きにより市川と称されていたこと。
越後から米沢へ移った上杉家に市川氏がおり、稲荷社も勧請したことなどによる。
拝殿後方の本殿は、覆屋の中。
下から覗くと、見事な流造だった。
本殿には、焔宝珠を三つ並べた紋様の幕が飾られていたが、
拝殿の鬼瓦には、単純な宝珠の紋。
鬼瓦の左右に、上り狐と下り狐の焼き物が面白い。
境内には、少し大きめの境内社・古峯神社がある。
参道鳥居 | 境内 |
本殿の覆屋 | 拝殿、カメラを向けると子供たちは固まった |
拝殿 |
拝殿の紋と狐 | 古峰神社 |
拝殿 | 覆屋の中の本殿 | 御神木 |
【由緒】 創立年月不詳。口碑に延喜式神名帳記載の市川
神社と傅へる。もと松ケ崎村の産土神たり。明治五年十月
第二大區八小區の村社に列す。 稻荷神社を市川神社に比定する理由について、『越後國式 内神社考證』は、(一)明治四年に羽前國米澤領松ケ崎城下給 荷神社神職石塚弘人が越後を訪れた時、米澤の松ケ崎は上 杉爲景の時代に越後から移つたものであり、上杉家中に市 川氏があり、舊地氏神稻荷神社をも移し祭つたものである と語つたこと、(二)稻荷神社はもと加治川の傍にあつたのを 川欠により天保年中(一八三○−四四)に現在地に移したも のであるが。松ケ崎付近における加治川の稜威速きにより、 上古は市川と稱し、その暴いを鎮めるために市川神社がお かれたと解してゐる。いささか決め手に欠けるが、この考 へは『特選神名牒』や『大日本地名辞書』にもうけ入れら れてゐる。『大日本地名辞書』は「此峰は甚高からずと雖、 信會二水井に福島潟の方面を眺望し、もしくは古の渟足柵 などの遺址にあらずや、奥州の多賀城は市川てふ村落に在 り、名義は詳ならねど、諸州の國府址に市川てふ名往々見 ゆ」とも述べてゐる。 一方、この地域は近年まで漁村であつたために、稻荷神 社は漁民の信仰を集めてをり、かつては三月二十四日、二 十五日に祭禮を終へて、カムチャッカの漁場に出かけたと いふ。さうしたことを裏付けるかのやうに境内に大正十二 年八月松ケ崎造船職工組合奉納の燈籠も存在する。 −『式内社調査報告』− |
【 松浜稲荷神社 (新潟市) 】