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宮王神社
みやおうじんじゃ
長野県長野市若穂棉内字山崎3424
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式内社 信濃國高井郡 越智神社 |
長野県長野市にある。
長野駅の東14Kmほどの若穂綿内の山崎に鎮座。
上信越道の須坂長野東I.C.の南6Kmほどの場所だが、
言葉では説明しにくい場所に境内がある。
妙徳山の北西麓、というか中腹の集落の奥。
道なりにウネウネと登って行き、家が無くなったあたり。
山麓の斜面に境内がある。
境内入口は西向き。
赤い両部鳥居が立っており、鳥居扁額には「宮王神社」。
鳥居をくぐり参道を上ると、広く開けた境内がある。
境内の奥に入母屋造の拝殿があり、
拝殿の後方、一段高い位置に流造の本殿。
拝殿の左前には、信州の神社特有の御柱が立っている。
山の集落の奥という立地を考えると、
木々が少なく、明るい感じだが
境内右手の斜面には、木々の間に幾つかの石祠や磐が祀られており、
古社の趣のある静かな神社。
当社は式内社・越智神社の論社・小内神社の古社地。
社前の案内板によると、
天平九年(737)霊峰妙徳山(明徳山)頂に
越智泰澄神融が白鬚大明神を祀って越智神社を創建。
その前宮が踊原に創建され、
平安時代初期に現在地に前宮が遷座されたらしい。
越智神社は、鎌倉時代さらに麓の清水の諏訪社の地へ遷座され、
のちに室町時代後期の永世元年(1504)
現・小内神社の地へ遷座されたという。
山頂に本宮を持つ神社の祭祀は、
前宮(里宮)で行われるのが普通だから
延喜式に記載されていた当時の越智神社は当社であったと考えられる。
ただし、式内社・越智神社の論社は小内神社以外にも幾つかある。
越智神社は遷座したが、
当地の産土神として諏訪大明神への信仰が続けられ
天保十三年、正式に許可されたらしい。
社殿の屋根に、梶の葉の紋が付けられていた。
諏訪大明神とも称されたようで、梶紋が当社の神紋だろう。
境内左手に社務所。社務所の隣りに「三社」という祠があって
中に三つの石が祀られている。
三つの石には、それぞれ彫刻があり、
左の石には赤ん坊を抱いているような神の像。
これは、子安観世音らしい。
中央の石には典型的な大黒天の像。
右の石には、笏を持って帯刀した装束の神の像。
社前の案内にある「天神」だと思うが、菅原道真だろうか。
社頭 |
鳥居 | 参道 |
境内社殿 |
拝殿 | 本殿 |
境内右手の石祠 | 境内右手の磐 |
境内右手の石祠から境内 |
三社 | 中に三つの石 |
子安観世音 | 大黒天 | 天神 |
宮王神社
主祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。ほか天照皇太神宮、
秋葉神社、三社(天神、大黒天、子安観世音)を合祀。
明治六年(一八七三)「村社」に列せらる。創建は、天平九年(七三七)霊峰妙徳山(明徳山)頂に越智 泰澄神融が白鬚大明神(しらひげだいみょうじん(可美摩遲命 うましまじのみこと)) を祀り「越智神社」本宮を開基したときの「前宮」である。 以前は、此処より南方の踊原地籍に在り、本宮と同じ時期に 建立されていたとみられる。 醍醐天皇の御世、延喜五年(九〇五)より編修された律令の 「延喜式」と云う書物五十巻の内、第九、第十巻に神名台帳が在り、 この中に全国に存在した延喜式内社が記載 されており、高井郡内ではこの「越智神社(現小内神社)」 のほか五座が銘記されている。 延長五年(九二七)に書物が撰進されているので、それ より前の平安時代(七九四〜一一九二)初期には「前宮」は、 ここ宮王原の山崎地籍に遷座されていて、この広い境内から 推して、当時「延喜式」に登録されるだけの、相当な 規模と格式をもった社殿が建立されていたとみられる。 その後前宮は、鎌倉時代(一一九二〜一三三三)に清水の 片山地籍へ、さらに室町時代後期の永正元年(一五〇四)に 現今の森地籍に遷座されている。 現在の宮王神社は、前宮が清水に遷座したあと、当時の 山新田組の産土神(うぶすなかみ)として、主祭神の建御名方命を 祀り、以後永年に亘り崇敬されてきた後、天保十三寅(一八四二) 年三月八日には、神祇道管領長上侍従卜部朝臣良芳 より、主祭神「諏訪大明神」が正式に神宣の允許(しょうきょ) を受け、その「神宣状」と「幣帛」を拝受している。 現在の社殿は、寛政十一年(一七九九)正月と、慶應元年 (一八六五)十二月に再建がなされたものである。 奥殿は、昭和三四年(一九五九)八月の、伊勢湾台風の 直前に襲来した台風七号で、境内の大木の神木が倒れて倒壊したが、 翌年にかけて再建がなされている。
−社頭案内板− |