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船江太神宮
ふなえたいじんぐう
新潟県新潟市中央区古町通一番町500
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新潟市新潟市古町通にある。
昭和大橋の北、白山神社の前の一角にある。
街中の神社の宿命、境内には車が停められていた。
地図や資料には、「船江大神宮」とあったが、
拝殿の額には、「船江太神宮」と書かれていた。
ただし、正式名は、「神明宮」で、新潟総鎮守のようだ。
船江神社と神明宮が、安政5年(1858)に合体した神社。
両社とも、寛永15年(1638)以前には1Kmほど北の寄居町周辺にあった。
船江神社は、式内社の論社で、建立は崇神天皇10年6月。
昔、一艘の変わった形の舟が流れ着き、中に白髪の老人。
村の守護のために来た猿田彦大神と名乗った、その老人が乗っていた
その「舟を得た」ことから船得郷となり、船江と変化した。
ちかくにある白山神社が、かなり立派。
以前は、7000戸の産土社であったが、
明治5年に、白山神社にその地位が移った。
社殿 |
拝殿の額 | 本殿 | 境内社・八幡宮 |
参拝のしおり 御由緒 当神社は天正年間(一五七三〜一五九一)までは、船江神社・神明宮ともに各々が境内を持つ独立した二つの神社でした。 明暦年間(一六五五〜一六五八)以降に、同じ境内地の内にそれぞれのお社が並列して建てられ、「船江神明」と称されておりました。 その後安政五年(一八五八)に現在のように合祀されました。 船江神社は、崇神天皇十年六月(西暦二四〇ころ)に建立されました。当時、この里がまだ貝操といわれていたころに 、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで見たこともない形の船でしたので、 村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。 村人たちが不思議に思い尋ねましたところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。 これより末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠されました。 これに驚き、また大変喜んだ村人たちは、この船魂「猿田彦大神」をお祭するため早速お社を建立し、大切にお守り致しました。 この時の船は新潟の船の起源とされ、また地名も船得郷と改められ、その後「得」を「江」に転じて船江大神と崇められました。 延長五年(九二七)、延喜式神明帳に越後の式内社と記載され、神祇官から官幣をいただいております。 神明宮の創立は不詳でありますが、天正十九年(一五九一)四月二十八日、上杉家より米四斗七升二合、社地二千坪の寄進と共に直江山城主兼 より真筆の「高天ケ原」額並びに黒印書を賜り、御師次太夫が神明宮の神職として任命されました。またこの黒印書の由来から、明治に至るまでの間、諸役が永年免除されておりました。 元禄年間(一六八八〜一七〇三)のころから船江大神宮と称せられ始めました。 文政六年(一八二三)二月、神祇伯白川家と並んで全国の社家を統轄する吉田家より船江神社の社号を、 また安政五年(一八五八)には、船江大神宮の社号を、栽司されました。明治元年に村社に列し、同五年三月、 新潟総鎮守として全市民の氏子札を届けてあります。新潟縣初代縣令正三位永山盛輝真筆の社名額が奉納され、 現在も拝殿に掛けられております。昭和二年、第二十五・二十八代内閣総理大臣若槻禮次郎氏よりの社名石柱が奉納されました。 当神社は古典にその社名をみることのできる新潟で一番の歴史を持ち、総鎮守として尊崇される神社です。 −『平成祭データ』より− |
【 船江太神宮 船江大神宮 (新潟) 】