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賀茂春日神社
かもかすがじんじゃ
山梨県笛吹市春日居町加茂320
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山梨県笛吹市にある。
中央本線・春日居駅の南1Kmほどの加茂に鎮座。
地図には、「加茂春日神社」と記されているが
境内での表記や社殿扁額には「賀茂春日神社」と記されている。
境内入口は南側、
だが、僕は208号線側(西側)から境内に入った。
とりあえず、南側の鳥居へ向い、表参道から参拝開始。
鳥居をくぐり石橋を渡ると境内。
参拝は晩秋の休日。晴天で真っ青な空の下、
境内の木々の葉は完全に落ちて寒々としているが
初夏には鬱蒼とした緑の中にあるのだろう。
参道を歩くと、正面に大きな社殿。
拝殿の後方に、垣に囲まれて流造の本殿がある。
社号からもわかるとおり、
当社は、賀茂神社と春日神社を合せた神社。
賀茂神社は、欽明天皇の御代(五四〇)に創建。
春日神社は、文武天皇の御代(六九八)、
山上億良の孫・甲斐守山上船主が京都より勧請。
古来、武神として崇敬され、
康平年間には八幡太郎義家が武運長久を祈願し
御幣を奉納したという。
笛吹川の氾濫により社殿が流出し
天正10年には兵火にあい焼失したが
翌年、家康により再興され、貫文、朱印を下賜された。
式内社・神部神社の論社の一つ。
『式内社調査報告』によると、
幕末まで、当社の大例祭には松明をかかげ
「シンギヨウ、チヤウヂヤウ、カンベ、チヤウヂヤウ」と
唱えていたという。
ただ、神部神社であるとする理由が、
当社が加茂郷の地であり、
加茂と神部が似ているということらしいのだが。
本殿のある垣の中、本殿の右手と
境内の左手、植栽に隠れるように
境内社があるが、詳細は不明。
『平成祭データ』には、廿三夜社(月讀尊)と靖国社の
二社の名前が記されていた。
神紋は葵紋。これは賀茂社としての紋だろう。
社殿の屋根瓦には、通常の葵紋とは逆の尻合せ葵が刻まれていた。
境内入口 |
参道 | 境内 |
社殿 |
拝殿 | 本殿と境内社 |
西参道鳥居 | 境内社 |
由来
当社は延喜式神明帳に記載された神社であって、賀茂・春日両社の合社であり、古くは二社が並び建っていた。賀茂社は欽明天皇の御代(五四〇)に、春日社は文武天皇(六九八)に祭祀された。古来より多くの崇敬者あり、特に武神として国守、武将の信仰が厚かった。 康平年中(一〇六一)に八幡太郎義家東夷征伐の折、武運を祈願して御幣を奉納された。また、義家の弟である源義綱は当社殿にて元服して賀茂次郎と改名した。 永正一四年(一五一七)武田信虎の時、子酉川(今の笛吹川)が氾濫した大洪水により社殿、社地流出して、再建後は両社を一棟の社殿に造営した。その後天正一〇年(一五八二)中牧合戦の折兵火にあい社殿消失する。天正一一年(一五八三)徳川家康入国の際、貫文及御朱印を奉る。 現在の本殿は元禄一四年(一七〇一)甲斐国城代三枝摂津守が建立したものであり、拝殿は文久二年(一八六三)田安殿代官磯部寛五郎の指図により立て替えられた。旧社地は実に三六三二坪であった。 祭神は玉依姫命、別雷命、神武天皇、天児屋根命、経津主命、武甕槌命の六神である。 武田晴信(信玄)奉納の和歌 君を祈る賀茂の社のゆう襷かけて幾世か我もつかえん 初秋の頃賀茂御社の水に身をしたしてよめる たちかえりまたも汲みみん涼しさは賀茂の宮居のみたらしの水 永鷹 賀茂大明神の御社に詣ではべりて 引きはへし賀茂の宮居のみしめ縄すぐなる道を神ぞ守らむ 永憾 千早振る賀茂の社の姫小松幾千代までも栄えぬるさむ 読み人知らず 某がしとか云える花下の好士奉寄詞に都の北おほみ 社より此くぬちにうつし奉る賀茂御神の御前にぬかつきて ゆう涼み日枝より不二ぞ甲斐の賀茂 読み人知らず −『平成祭データ』− |