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八幡神社
はちまんじんじゃ
山梨県甲府市宮前町6−47
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山梨県甲府市にある。
甲府駅の北2Kmほどの宮前町に鎮座。
武田神社へつづく武田通りから東へ入った場所に
南向きの広い境内がある。
道路に面して鳥居が建ち、
鳥居の右手に「甲斐総社 八幡神社」と刻まれた社号標。
参道を進むと、左手はグラウンドのようになっており、
右手に池。池の中央に小島があり石の祠がある。
参道を進むと正面に社殿。
後方、垣の中に流造の本殿がある。
境内の後方は林になっていて
散策にはちょうど良い雰囲気。
社殿の左手の小路のそばに、石碑が建っていた。
「營繕之碑」というらしく、
明治時代に荒廃した社殿を再建した記念碑だそうだ。
当時の社殿は、昭和27年7月の甲府大空襲で焼失したので
現在は、その後再建されたもの。
甲斐国総社として崇敬された神社。
甲斐源氏の始祖新羅三郎義光より四代石和五郎武田信光が、
承久年中、鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を石和の館に勧請。
武田家の氏神として国衞八幡宮(今石和若宮八幡)と称へ尊崇。
永正十六年、武田信虎躑躅ヶ崎に築城の際、
甲府市峯本町古八幡の地に遷座された。
その後、浅野長政天正十二年、甲府城を築城の際
文禄四年、現在地に遷座された。
本社社殿の右手には、境内社・東照宮がある。
当社の東に、夢見山という山がある。
昔、武田信虎がこの山に登ったとき
急に眠くなり石を枕に寝入ってしまった。
すると、夢に男が一人現われ
「今、甲斐国主として誕生した男児は、
曽我五郎の生まれ変わりである」と告げた。
その後生まれた若君(後の信玄)を勝千代と名付けたが、
勝千代の右手は握ったままだった。
心配した信虎が天桂和尚に相談すると、
和尚も同じ夢を見たといい、夢の男は
「その子の右手には金龍の目貫一片がある。
城東の池で洗えば右手は開く」と告げていた。
その通り、池で洗うと右手は開き
中から目貫が出てきたという。
境内入口 | 鳥居 |
境内 | 神池 |
境内社殿 |
拝殿 |
本殿 | 本殿 |
營繕之碑 | 東照宮 |
營繕之碑
当社は承久年間(今から約七八〇年前鎌倉時代)武田信光(武田家
七代目)が鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮を、信光の館「石和」の地に勧請誘致
して甲斐の国八幡宮と稱した。其の後代々武田家の氏神として崇敬
して武田信虎(信玄の父)が古府中(甲府)に館を移すと一緒に、神社
も隣地に遷座した。文禄年間(約四〇〇年前)武田家滅亡後豊臣秀吉の家臣浅野長政が 今の甲府城築城に際して古府中相川から「現在の地」に奉遷して城の 鎮守甲斐國総社とした。 其の後徳川家康が甲斐の国の領主になって 石高二十六石社地壱万九千坪を寄進して、あらためて城の鎮守国の 祈願所として、領内百六十社の神職に命じて国家の安全を祈ること を恒例とした。 徳川幕府が終わり明治維新になると禄高が国に返還される事になっ て神社の収入は激減して、その維持管理が段々苦しくなり、明治年間 後半には社殿の荒廃は見るに耐えない状態となった。大正九年此の状 況を見た有志が相談、八幡神社奉営会を組織して多くの協賛者によっ て、参萬円という巨額の寄付金(今の価格で約参億円)を得て、以前 より立派な本殿・拝殿・随身門・鳥居・神楽殿の再建工事が完了した。 之は神徳の御蔭であるが協賛者有志の崇敬心と努力の結果であり、 茲に皆様方の芳名を記録して其の功労を記念するものである。 −營繕之碑 碑文より− 甲斐國総社八幡神社由緒
一、鎮座 甲府市宮前6-47一、御祭神 東殿 姫大神(ヒメオオカミ) 中殿 誉田別命(ホムダワケノミコト) 西殿 息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト) 一、御社殿 一、御本殿 三間社流造 文禄四年浅野長正奉献なりしも昭和二十年七月焼失 二、拝殿 昭和二十年七月焼失昭和三十年十月再建 三、神楽殿 創建当時のものにして大正十三年銅板葺に改む 四、随神門 昭和二十年七月焼失 五、鳥居 厳島型両部 昭和二十年七月焼失 一、社伝 当社の御祭神は誉田別命(応神天皇)を中殿に祀り、姫大神と申し、宇佐八幡、宗像神社、厳島神社の御祭神である市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)瑞津姫命(タキツヒメノミコト)田心姫命(タゴリヒメノミコト)の三柱の神を東殿に又、息長足姫命(神功皇后)を西殿に祀り、甲斐総社八幡宮(甲斐国誌所載)と称へ奉り古来国主及県民の尊崇厚かった神社であります。 ◎始め当八幡宮の御祭神は欽明天皇三十一年(1,390年前)豊前国(大分県)宇佐に奉祀せられ元正天皇養老四年九月(1,237年前)異国襲来して大隈(鹿児島県)日向(宮崎県)の地大いに乱れたる際朝廷宇佐八幡に祈って冠賊を平らげて以来特に朝廷の尊崇の深かった神社でありました。 ◎清和天皇の貞観二年(1,100年前)勅命により宇佐八幡宮の御分霊を石清水(京都府)に勧請し石清水八幡宮と称へ奉り朝廷の崇敬厚く四道将軍等の発遣にも時々勅願せられた神社であります。 ◎御冷泉天皇の御代清和源氏の祖伊予守源朝臣頼義勅命を奉じて安倍貞任を征するに当り石清水八幡宮に祈って是を平定したので関東の鎮めである相模国(神奈川県)由比郷に勧請(今下若宮八幡)したが源頼朝治承四年十月(778年前)始めて鎌倉に入るや深く崇敬して府内小林郷の北山へ遷し奉り鶴ヶ岡八幡宮と称へ奉った。(日本神社考所載) ◎甲斐源氏の始祖新羅三郎義光より四代石和五郎武田信光承久年中(739年前)鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を石和の館に勧請し武田家の氏神とし国衞八幡宮(今石和若宮八幡)と称へ尊崇し奉ったが永正十六年(439年前)武田信虎躑躅ヶ崎へ築城するに及び今の甲府市峯本町古八幡の地に遷座せられました。武田信玄の時永禄三年神家五ヶ条の条目を賜はり甲斐国九筋百六十四社の神主をして二日二夜づゝ二人交替に社詰め参篭して国家安泰を祈願(明治維新に至り廃された)する番帳を賜はりました。天正十年武田家滅亡して徳川家康入国して社参し社殿の造営を仰せ付けられ旧規の如き条目及番帳を賜はりました。(甲斐国誌所載) ◎浅野長正天正十二年、甲府城を築城するに及文禄四年(362年前)現在の古府中町へ奉遷し奉り府城の鎮守祈願所とし甲斐国総社と称し奉り崇敬された神社であります。 明治以降は県社に列せられ昭和二十七年宗教法人法により総社八幡神社と称へます。 一、御神徳 誉田別命及息長足姫命は国家鎮護の神様特に息長足姫命は延命長寿と安産の神様であります又姫大神は治水を司り給ふ神様であります。 −『平成祭データ』原文ママ− |