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建岡神社
たておかじんじゃ
山梨県北杜市長坂町大八田6822
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式外社 建岡神 三代実録 |
山梨県北杜市にある。
中央本線の長坂駅の北東1.5Kmほどの長坂町大八田に鎮座。
32号線を東へ進み609号線に入って北上すると突き当たり、
道路がカーブする場所にある丘が当社の境内。
境内入口は南向き。参拝は4月の午後。
散り残った桜の木が社頭に美しい。
境内に入り階段を上ると、少し広い場所に出る。
道祖神や石祠が並んだ場所からさらに階段を上ると鳥居、
さらに神門があって神門の奥が丘の頂上部で社殿のある境内。
境内右手に神楽殿。左手に境内社の祠。
正面の拝殿は銅板葺入母屋造。後方の本殿は流造。
本殿の右手にも境内社が並んでいるが詳細は未確認。
古伝によると、景行天皇四十年、日本武尊御東征のおりに、
この岡を望み、「建き大丈夫の立つるが如き」と言い、
殿舎を建て天津神を祀り建岡と名付けられたと云う。
当社は『三代実録』仁和元年(885)三月二十七日に
「授甲斐国正六位上建岡神・藤武神並従五位下。」と記されている
建岡神で国史現在社(式外社)と考えられている。
その後、山津波などで社地の移動があったようだが、
保元元年(1156)黒源太清光が谷戸に在した時、諏訪大明神を配祀し社殿を造営。
以後、諏訪明神とも称され、武田家代々の崇敬篤く、社殿の修復が行われていた。
文化五年(1808)には有栖川宮熾仁親王信仰により
御染筆の額字「建岡神社」を奉納され、有栖川宮家の御祈願所となった。
明治四年上地して明治六年郷社となった。
社殿や神楽殿の屋根に四本足の諏訪梶紋が付けられていた。
現在の境内社に関しては未確認だが、
『明治神社志料』には以下の名が列挙されている。
神明社、嗽社、天神社、豊受姫社、禍津日社、大六天社、津島社、石祠山神社、
八幡社、東照宮、疱瘡神社、金山社、蛇石社、庚申社、社宮神社、琴平社、
中原社、稲荷社、住吉社、富福稲荷社、田神社、天白稲荷社、薬王社、石尊社、
秋葉社、七社、由良社、荒神社、御崎社、子神社、道祖神社
社頭 |
境内入口 | 参道鳥居 |
境内 |
参道鳥居 | 神門 |
境内社殿 |
本殿 | 拝殿 |
境内左の境内社 | 神楽殿 |
境内社 | 本殿右の境内社 |
建岡神社国史現在社有栖川宮御祈願所
氏神様を建岡の山から末永く見守って下さいます −社頭由緒石碑− 建岡神社由緒
当神社の創建は古伝によれば景行天皇四十
年日本武尊御東征の際此岡を望み給いて建
てきますらをの立つるが如きなりと云われ
殿舎を建て天津神を祀り建岡と名ずけられ
たと云う 逸見冠者黒源太清光公谷戸域に
在りし時諏訪明神を配祀し社殿を造営した
以来武田徳川家代代の信仰篤く社領の寄進
を受け文化五年には有栖川宮熾仁親王御信
仰により御染筆の額字を奉納され御祈願所
となり昭和三十八年には高松宮家より系図
と筆録の奉納を賜わり古くから御神徳の高
い神社であります 祭神建御名方命は父神
大國主命兄神事代主命と共に國土開發の大
任にあたられ諏訪に移られた後はすぐれた
出雲文化を教えて殖産興業に尽されました
文永弘安の役には神威により外敵を退けら
れたと伝えられ全國的に國土の守護神とし
て崇敬者が多く 私達の先人は氏神として
敬い神社を中心に平和で豊かな郷土を造つ
てきました 今度御神徳を感謝し神威を高
揚すべく氏子一同の惣意により拝殿屋根銅
板葺替その田整備の大事業を発願し完成し
たので謹しんで竣工を祝い併せて由緒を碑
に刻し後世に伝えるものである祭神 建御名方命 −境内由緒石碑− |