[HOME] > [神社記憶] > [甲信越地方] > |
|
武田神社
たけだじんじゃ
山梨県甲府市古府中町2611
疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山
|
|||
旧県社 |
山梨県甲府市にある。
甲府駅の北、約2Kmほどの古府中町に鎮座。
武田通りと呼ばれる大通りを進んでいくと突き当たり、
国指定史跡の武田氏館跡、躑躅ケ崎の西方にあることから通称、躑躅ケ崎館跡の中にある。
当社祭神である武田信玄公の父・信虎が、永正 十六年(1519)に
石和から当地に館を移し、その後、信玄・勝頼と武田家当主の館であったところ。
境内には、信玄公が使用したという井戸や、息女の産湯に使ったという姫の井戸などが残されている。
躑躅ケ崎館は、一辺が約200mの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、
その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式だったそうだ。
ということで、外観は神社というより城跡。
お濠にかかる神橋を渡り、階段を上ると石垣の上に広い境内。
参道の左手には芝生が広がり、甲陽武能殿や榎の下に祀られた榎天神。
参道には風林火山として有名な「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」と染められた幟が立っている。
あいにく当日撮った写真では幟が裏向きになっていたので、画像を反転して下に掲載してみた。
参道を進むと鳥居があり、鳥居の奥に当社の社殿。
拝殿は入母屋造。拝殿の後方に中門があり、垣に囲まれた流造の本殿。
社殿の右手には白山社(歯の神様)が祀られ、宝物殿の前にはキティ石像がある。
参拝は四月後半の早朝だが、観光客だけではなくジョギングや散歩の途中に参拝する人も多く、
甲府市民の生活に不可欠な存在なのだろう、などと考えながらの参拝。
当社祭神は戦国武将の武田信玄公(武田晴信命、「信玄」は出家後の法名)。
大正四年十一月一日、大正天皇御即位に際し、
信玄公の偉徳を賞せられ特に従三位を追贈せられたるを以って
神社創建の議が熟し、官民有志一致協力のもと、
大正六年七月十七日、信玄公居館の地を鎮座地と定めて神社創建を願い出、
同年九月十七日内務大臣より創建許可、大正八年四月十一日社殿落成、鎮座祭を執行。
信玄公の命日である翌四月十二日を例大祭と定めたという。
社頭 |
参道と鳥居 | 鳥居 |
境内 |
参道の幟(反転) | 甲陽武能殿 |
境内 |
武田水琴窟 | 姫の井戸 |
社殿 |
拝殿 | 本殿の屋根 |
信玄公御使用の井戸 | 白山社(歯の神様) |
榎天神 | さざれ石 |
国指定史跡 武田氏館跡(躑躅ケ崎館跡)
館は、一辺が約二百メートルの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その 回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。 館の回りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に整備された道路に沿って、 城下町が開けていました。 この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠として、第一級の規模と質を誇るものです。 −境内案内板より− 武田神社参拝のしおり 鎮座地 山梨県甲府市古府中町(駅よりバス10分)に鎮座、此の地は御祭神在世中の居館躑躅ヶ崎館趾である。 前面に甲府盆地を俯瞰し遠く霊峰富士をはじめ甲斐の連山を望み、後に石水寺要害山を控えた景勝の地で、神域は古木欝蒼として森厳の気自ら襟を正さしめるものがあるのみならず、創立当時県内崇敬者より寄進された数百種に余る樹木は植物園の観を呈し、学生生徒に教材を提供している。 昭和13年史蹟名勝地として指定されたのも故なしとしない。御祭神の墓地は社殿東南約五百米、濠に囲まれた松林にある。 御祭神 武田晴信公 由緒 武田晴信公は清和源氏新羅三郎義光公の後裔である。後柏原天皇の大永元年石水寺要害城(社殿後方にそびえる山)に生まれ、幼名を勝千代と申された。天文五年三月元服に際して将軍足利義晴から偏諱を得て晴信と称した。信濃守に任ぜられ、天文十年父信虎公の後継者として甲斐の国主となり爾来領国の経営に力を尽くすこと三十有余年、天正元年四月十二日西上の途次病歿せられた。時に五十三。 晴信公は早くから兵法に通じ甲州流の範をたれ、又民政についても世に信玄家法として知られる法度を定めて、国内統治の基礎とされ、或いは大小切りの法による徴祖、信玄堤として今日に残る治山治水、産業の開発、甲州金の鋳造等その御事蹟は枚挙にいとまがない。 然し武将としての評価は高いが民政家としては兎角誤伝の向が多い。御祭神の歌に 人は城 人は石垣 人は堀 なさけは味方 あだは敵なり の一首がある。これこそ晴信公の民政に対する信念であった。国人を愛し、国内産業振興に力を尽くしたなればこそ、国人挙って公をしたい、公を支援し、戦国武将中の第一人者ならしめたのである。 大正四年、大正天皇即位に際し、特に従三位を追贈され、これを機として県民はその徳をしたい官民一致協力、社殿造営、同八年竣工、鎮座祭が行われた。 御祭日 例大祭は四月十二日(御祭神命日)に行われる。 祭典後の神輿渡御は、御祭神在世中の出陣に模して、武田二十四将の甲胄に身を固めた騎馬がこれに従い、豪華な祭典が桜花の咲き乱れる参道に繰り広げられる。 −『平成祭データ』− |
当社から南東に1Km弱の岩窪町に信玄公の墓所がある。
信州伊那駒場の地で五十三歳で亡くなった信玄公は、死を三年間秘すように遺言。
嫡子勝頼公は、これに従い信玄公の遺骸を密かにして、
三年後、二十四将の一人、土屋右衛門昌次の邸内で荼毘に付した。
当地はその土屋邸跡だそうだ。
江戸時代、甲府代官であった中井清太夫がこの地を発掘して石棺を見つけ、
幕府に届け出て、信玄公の墓と定めたという。
武田信玄公御墓所 | 武田信玄公御墓所 |
墓石 |
甲斐国主 武田信玄公御墓所について
天正元年(一五七三)四月十二日、信州伊那駒場で五十三歳を
一期として、波瀾の生涯を閉じた英雄信玄公はその臨終に際し
三年間の秘喪を命じた。嫡子勝頼公は、これに従い、信玄公の
遺骸を密かにして、三年後、二十四将の一人、土屋右衛門昌次
の邸内で、荼毘に附し、天正四年四月十六日、塩山、恵林寺に
於て、葬礼を行い、埋葬した。岩窪の墓所は、土屋氏の邸跡で
後世これを、魔縁塚と呼び、里人は恐れて近づかなかったとい
う。それから、およそ二百年後の江戸時代安永八年(一七七九)
甲府代官、中井清太夫が発掘して、石棺を見つけ、その銘に
「法性院機山信玄大居士・天正元年癸四月十二日薨」とあった
ので、もとのように埋め幕府に届けて、信玄公の墓と定めた。
この時、東花輪村、田中喜衛門、西花輪村、内藤正助、外五十
二人の武田家の旧臣有志が大石碑を建て、壮麗な聖域とした。
碑文は時の円光院住職・愚應の書である。現在地域住民は、こ
こを信玄公さんの墓と敬愛し、小供達と共に精神的憩いの場と
なっています。又地元老人クラブの人々が、毎月一回清掃奉仕
を行い自治会では、年中行事として、四月十二日の命日に円光
院並に近隣の寺院の協力に併せて、信玄公さんの祭りとして、
墓前法要を勤め、ありし日の国主を偲んでおります。
−案内板より− |