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科野大宮社
しなのおおみやしゃ
長野県上田市常田2−22
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長野県上田市。
JR上田駅の東1Kmほどのところ。
141号線から一本入った道の側に鎮座している。
崇神天皇の御代、信濃国造であった、
建五百連命の創立による科野大国魂神である。
神紋は「根梶」と資料にはあったが、
拝殿には五三桐紋のような紋が付いていた。
本殿には、足のある梶紋らしき紋があったが、
細部は確認できなかった。
大宮諏訪大明神とも称されていたので、
諏訪梶であることは間違いないと思うが。
境内には、立派な巨木が数本あって、
町中の神社としては珍しい。
ただ、季節のせいか、葉はすべて落ちており、
夏の印象は、また別のものだろう。
とにかく巨木が印象的だ。
拝殿の裏、本殿横に、槻のご神木があり、
「樹齢千五百年」と書かれていたが、多分、枯れている。
総社らしく、境内社が多く並んでいる。
鳥居 | 境内 |
拝殿 | 拝殿裏の御神木 |
境内 |
本殿 | 本殿 |
城中稲荷社 | 子安社 |
熊野社、皇太神宮、社宮社 | 神明社 |
天神社 | 三峰社 |
六所明神社 | 駒形稲荷社 |
科野大宮社 科野國鎮護総社科野大宮社由緒略記 大宮社沿革概要 第十代崇神天皇建五百建命を信濃国造に任命して国府を上田に置き天神地祇を敬ひ神 地神戸を定めて国土開発をおこなはしめた。この頃国魂の神科野大宮社を創祀して住 民の安全を祈り官民ともに開発につとめて国府のある開拓地となった。 天武天皇13年遷都の候補地としてこの地方を調査の時神部神戸を大宮社に寄進した 。又天平年中宮祭が執行された。 天慶元年平将門の反乱軍と平貞盛の軍と国分寺と千曲常田河原に於て戦ひそのため国 分寺諸堂と大宮社の社殿楼門神庫及び附近の民家数百戸を戦火により焼失した。 文治年中常田庄八條院ワ子内親王は大華表を鳥居場に建て大宮社に奉納した。 康安2年関東管領足利基氏は彗星出現につき天下の安全を大宮社に祈りその願文を奉 ったこの世代大宮社の名声天に普しと云ふ。この頃の旧記に大宮社の社域は東西六丁 南北は八丁と記され此の地坪は大約十三万余坪と推定されて往時の壮大且つ宏大な大 社の面影が偲ばれる。 應仁の乱より百十数年続いた戦国乱世もおさまり徳川幕府は天正18年上田藩主に真 田信之を任命、次に仙石忠政次に松平忠周を任命した。各藩主ともに上田城の守護神 大宮社を篤く崇敬して常に社殿其他建物を修理し護持につくした。藩主は毎歳1月1 5日参拝して自ら奉幣藩中安全を祈念した。 元禄5年藩主仙石政明は大宮社の枯神木に雨覆を取付けて保存を計った。又棟札及社 伝に宝永7年、正徳4年、元和2年、明和3年、安永9年の70年の間に五回大宮社 の修理を上田藩が行った。 万延元年藩主松平忠礼は本殿拝殿を再建新築した。(現在の社殿である) 信濃の国の鎮護国魂の神科野大宮社は創祀以来二千年余の長い世代の変遷や戦国の世 に在っても常田庄上田地方の人々は総社大宮さんと称奉って崇敬信仰護持につとめて 今に及び賑ふ豊かな町内又氏子として益々繁栄を続けている。 −『平成祭データ』− |
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